自己犠牲無用論・自己利益最大化論

 「思想?ウソだ。主義?ウソだ。理想?ウソだ。秩序?ウソだ。誠実?真理?みんなウソだ。」という坂口安吾の言葉を受け容れて、「天皇陛下のために」「故郷のため、父母・恋人のために」戦死した人たちの犠牲を「犬死に」として貶めた私達は、自己の利益にならないことは、舌を出すことさえもすべきではないと小中学校で教えられた。それは津市でのボランティア裁判を経て、人による人のための善意をさえも否定する風潮となって、「世も末」となっていった。

 この弾み車が逆転を始めるキッカケは、カンボジア国が国家再建のための国政選挙を国連監視の許で実施しようとしていた時。1993年4月8日、1人のボランティアとして監視団に参加していた、中田厚仁氏がゲリラに殺害されたことであった。その犠牲を中田氏の父親が是認して、国連や日本政府を全く批判しようとしなかった。中田氏は息子の死に怖じけることなく、慌てふためくこともなく、自己の息子が「カンボジアの再建のために犠牲になったことを光栄である。」と総括した。

> 日本のマスコミは、この父親の毅然とした態度に毒気をぬかれて、日本外務省や国連を非難する記事を遂に一行も書くことなく終えてしまった。数十年来、私にとって、いかなる事象が起きようとも、マスコミがどのように反応するかは、常に予想通りであった。中田氏のゲリラ殺害事件も、数秒にしてその記事内容は、予想できた。その予想がことごとく徹底的に外れたのが、中田氏の犠牲であった。日本のマスコミが、殺害犯人であるゲリラも含めて誰を非難して格好を付けるか、私は注目し続けた。自己犠牲を奨励できない日本のマスコミは、態度を保留した。

 この方向性が、「場合によっては自己犠牲もあり」となってマスコミに定着するのは、1995年1月17日阪神淡路大震災の惨劇を全国民がテレビで目の当たりにしてからだ。あの時は、茶髪の若者から神戸のやくざに到るまで、老若男女を問わず、炊き出しや被災者支援に汗を流して恥じらうことがなかった。この動きは1997年12月のナホトカ号による日本海の重油汚染事件に際しても変わらずに発揮されて、「人が困っている時に、出来ることをしてあげること」がまるで恥ずべきことでなくなってしまう。むしろ格好いいことになって行くのであった。自己犠牲の是認は、自己中心・自己本位の生き方を、日本人の標準から傍流に押し流していく。未だに「お金持ちになりたいから医者になる、弁護士になる。」と公言してはばからない人々がいることは確かだが、どうもこの人達は、もはやこの国の標準的な階層ではなくなっているようだ。何よりの証拠は、千葉大学医学部等が入試に当たって面接を行うようになり、このような言葉を公然と吐く無恥・無教養な人達、謙虚さを知らない入学志願者達を排除し始めていることだ。千葉大医学部関係の医者達の物腰は本当に変わった。患者達を見下すことを決してしない紳士になった。以前は、肩で風を切るようにのっしのっしと病院の廊下を歩いていた、あのやくざのように傍若無人の医者達はどこに行ってしまったのだろう。