8 戦後の育児、その理想型の行き詰まりと転換

 私達が戦後、学校等で学習させられた、様々な理想型が急速に崩れていったのがこの30年間であった。生活が豊かになり、生活の水準が急速に上がるのと併行して、家庭内暴力、校内暴力、自己中心、引きこもり等の問題が膨らみだした。同時に、責任を以て決断するリーダーの不在がはっきりと問題にされ始めたのは、元号が平成になって「トップは責任をとってよい」ことになってからだ。何かが起きた時に「誰が責任を負ってくれるのですか?私は責任を負いたくありませんよ。」と学校等団体のトップが平然と言って来たのが戦後の70年間であった。

 我慢するのは馬鹿。挨拶も礼儀作法も戦前の遺物。食前に「頂きます」食後に「ごちそうさま」なんて言うのはおかしい。黙って食べるのがアメリカ式だ。玄関で履き物をそろえるのも全く要らぬ作法。「自分が損することはどのようなことでも断固として断れ。自己犠牲とは、軍国日本の自己欺瞞でしかなかった。」と学校の教員達は子供達に語った。

 「自分は大東亜戦争・太平洋戦争の敗戦の責任をとらなくてはいけない。」と承知しておられた昭和天皇が、責任をとることをアメリカによって禁じられていた間、日本人達は、トップが責任をとることを避ける様にしてきた。その禁制は昭和が終わって、30年前に解除された。やっと喉の骨が取れた。

 が、その時、「命よりも名誉・自尊心を重んじた」武士の精神は、「自尊心・名誉を捨てても命を大事」とする町人の心に取って代わられていた。この逆転は、まさに戦勝国アメリカが目指した日本人改造計画の成功の1つの証であった。国のリーダー達、エリート達が300万人の犠牲者達の死を、「犬死に」と貶(おとし)め「命あっての物種」などと呟くようでは、もはや日本・日本人達が世界で尊敬されることはない。

 「もはや日本人達は、世界から尊敬などされなくてもよい。ただアメリカ国民・中国民衆・ソ連邦リーダー達のお情けによって、1日1日生かして貰えさえすればよい。」というのがロンドン大学教授森嶋通夫先生の教えであった。「もしソ連軍が、北海道に侵攻してきたら、赤旗と白旗を揚げて、歓迎しよう。」と。

 が、フランスの詩人・外交官であったポール・クローデルによって「世界で唯一残されるべき民族があるとすれば、それは日本民族だ。」と1943年(昭和18年)に言い残された日本人達は、「隷従」の境涯にいつまでも甘んずることはない。渡辺京二著「逝きし世の面影」2005年9月刊に記された江戸・明治の素晴らしい日本人達は、津波に襲われた東北地方では、未だ消滅していない。「風立ちぬ。いざ、生きめやも。」と宮崎駿は「東北」に同調共鳴した。この人の直感的な世界理解を私は信じたい。

 

ァ 平等論

 「人々は神の前に皆平等だ。」と言われて、戦後の日本人は、「神の前に」を外し「人は皆平等だ。」と思いこんだ。そこには神に対する恐れも、恐れに由来する緊張も、平等自体を常に問題にし検討するという強迫観念もなかった。それはぐずぐずだらだらの平等論と言ってよかった。それは一切の上下関係を無視して善いとするもので、弱い者も強い者も平等であるとする、非常に乱暴で無慈悲な振る舞いを日本人に蔓延させていった。

 無知な者が自己の無知を恥じず、強い者が自己の強さを平然と行使して恥じず、我が親子はお友達だと思いこむ父母が現れた。親子が友達のように呼び合う例が出始め、親達が子供達を指導しなくなった。指導するための、親になるための勉強もしなくなった。30才になって親になりながら子供のままで平気。子供達が子供達を育てる風景が珍しくなくなった。その子供達は、正に「夜郎自大」で生意気そのもの、実に態度が大きい。状況判断も不十分、何かがあれば甘えて自己処理をしない。全てが子供のままで、振る舞いだけは生意気なアンバランス。本人は気付かないおかしさ。我慢なんて勿論しない。礼儀なんて親が知らない。子供も知らない。状況判断がどうもおかしい。やはり自己中心。実に見事な程に自己本位。それは厚顔無恥そのものだが本人は、ニコニコと恥知らず。

 

ィ ノーストレス論・我慢忍耐不要論

 我慢なんかしてはいけない。我慢・忍耐は封建体制の遺物。子供達にストレスを与えないように気を付けよう。ストレスは子供達の健全な成長を妨げる。子供達をのびのびと育てるために、子供に「ダメ!」と決して言わないように気を付けよう。お茶の水女子大学某主任教授が先導となって宣伝してきた戦後の育児論であった。

 ある中学2年生が、家の二階に通じる階段をエスカレーターにしてくれと母に頼んだ時。生まれて初めて「それは出来ない。」と母に言われて、家庭内暴力を始めた。このニュースが世間に広まってから、子供には程々のストレス体験があった方がよいと言われ始めた。

 

ゥ 自己犠牲無用論・自己利益最大化論

 「思想?ウソだ。主義?ウソだ。理想?ウソだ。秩序?ウソだ。誠実?真理?みんなウソだ。」という坂口安吾の言葉を受け容れて、「天皇陛下のために」「故郷のため、父母・恋人のために」戦死した人たちの犠牲を「犬死に」として貶めた私達は、自己の利益にならないことは、舌を出すことさえもすべきではないと小中学校で教えられた。それは津市でのボランティア裁判を経て、人による人のための善意をさえも否定する風潮となって、「世も末」となっていった。

 この弾み車が逆転を始めるキッカケは、カンボジア国が国家再建のための国政選挙を国連監視の許で実施しようとしていた時。1993年4月8日、1人のボランティアとして監視団に参加していた、中田厚仁氏がゲリラに殺害されたことであった。その犠牲を中田氏の父親が是認して、国連や日本政府を全く批判しようとしなかった。中田氏は息子の死に怖じけることなく、慌てふためくこともなく、自己の息子が「カンボジアの再建のために犠牲になったことを光栄である。」と総括した。

 日本のマスコミは、この父親の毅然とした態度に毒気をぬかれて、日本外務省や国連を非難する記事を遂に一行も書くことなく終えてしまった。数十年来、私にとって、いかなる事象が起きようとも、マスコミがどのように反応するかは、常に予想通りであった。中田氏のゲリラ殺害事件も、数秒にしてその記事内容は、予想できた。その予想がことごとく徹底的に外れたのが、中田氏の犠牲であった。日本のマスコミが、殺害犯人であるゲリラも含めて誰を非難して格好を付けるか、私は注目し続けた。自己犠牲を奨励できない日本のマスコミは、態度を保留した。

 この方向性が、「場合によっては自己犠牲もあり」となってマスコミに定着するのは、1995年1月17日阪神淡路大震災の惨劇を全国民がテレビで目の当たりにしてからだ。あの時は、茶髪の若者から神戸のやくざに到るまで、老若男女を問わず、炊き出しや被災者支援に汗を流して恥じらうことがなかった。この動きは直後のナホトカ号による日本海の重油汚染事件に際しても変わらずに発揮されて、「人が困っている時に、出来ることをしてあげること」がまるで恥ずべきことでなくなってしまう。むしろ格好いいことになって行くのであった。自己犠牲の是認は、自己中心・自己本位の生き方を、日本人の標準から傍流に押し流していく。未だに「お金持ちになりたいから医者になる、弁護士になる。」と公言してはばからない人々がいることは確かだが、どうもこの人達は、もはやこの国の標準的な階層ではなくなっているようだ。何よりの証拠は、千葉大学医学部等が入試に当たって面接を行うようになり、このような言葉を公然と吐く無恥・無教養な人達、謙虚さを知らない入学志願者達を排除し始めていることだ。千葉大医学部関係の医者達の物腰は本当に変わった。患者達を見下すことを決してしない紳士になった。以前は、肩で風を切るようにのっしのっしと病院の廊下を歩いていた、あのやくざのように傍若無人の医者達はどこに行ってしまったのだろう。 

 

エ 子供部屋が子供の自立を促す論

 「子供に専用の部屋を与えることは、子供の自立のために必要です。」

 「子供部屋は何よりも勉強部屋であり、テレビやステレオや電話を置くことは、子供の勉強を促進させます。」

 1989(平成1)年女子高校生コンクリート殺人事件は、上記のように、戦後民主教育の理想を追った両親が、我が子のために用意した子供部屋で起きたのであった。1ヶ月以上に渉って監禁され、数人の男子高校生らによって、なぶり者にされる女子高校生の悲鳴、存在に、同居していた両親は、殆ど気付かなかったと後で語った。

 子供部屋が密室化し、子供達は「しつけ」や「遠慮」を学習しないだけでなく、家族の団らんから離脱して、ホテルの一室に滞在するが如く、勝手放題したい放題の居心地の良さに惑溺していった。今や世界で、韓国と日本にしか見られないという「引きこもり」の人たちの何人かは既に40歳台となり、総数は100万人を超えたと聞く。

 1998(平成10)年4月、(財)住宅産業研修財団理事長松田妙子氏は、「家をつくって子を失う」という大著を発刊。「住足りて礼節を失う」子供達の原因の1つが、利己主義製造装置であった日本の子供部屋にあると指摘した。日本の伝統的な子供の部屋の姿から、世界のどこにもない現代日本の子供部屋のあり方(鍵付きのドア・電話テレビ冷蔵庫付きの部屋・玄関から直行できる部屋の配置・父や母など家族との会話不要の生活=子供の自由、勝手、気儘を最大限に発揮させて上げようという世界でもまれなる親心=将来子供を「引きこもり」にするための予行練習)に到るまで、戦前に発する私達の錯覚を松田氏は跡づけている。

 数年前、「成績のよい子たちが、子供部屋で勉強しないで、台所や家人が居る側で勉強している」という本。「勉強机も専用の勉強部屋もないのに成績は抜群という子供達がいる」という月刊誌の特集が連発されたことがあった。そして大手住宅メーカーが、玄関から子供部屋に子供を直行させない住宅、子供部屋の戸が子供を親達から遮断独立させない配慮をウリにする住宅を提案し始めるのだ。ドイツもアメリカもイギリスも子供部屋を密室化させない配慮をしていたことに、私達は気付かなかった。子供部屋の戸にはカギがあってはならないことを知らなかった。

 子供達の「自立心は、孤立状態によって養われる」という実に簡単な錯覚。忍耐や妥協や「葛藤がない方が子供達の自立心は強化される」という錯覚。双方向の「情報交換を遮断することによって、孤独に強い人間になれる」という錯覚。要するに、孤島に流された「ロビンソンクルーソーこそが理想の教育環境にいた」と言わんばかりの錯覚。1つの戦後民主主義の錯覚が終わろうとしている。

 

オ 「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ」論

 食事の献立を何にするかを決定する権利、つまり献立権を巡る嫁と姑との権力闘争は、大家族時代の大きな課題の1つであった。この献立権が今、子供達の手に握られていると聞いた。「今日のメニューは何がいい?」と親から聞かれた子供が、「あれがいい。これがいい。」と応えると、それでその日の献立が決まる。「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ。」というわけだ。

 この子供の年齢がもしも6歳であるとしたら、6歳の子供が知っている味・献立しか食卓には載らないことになる。サイゼリアなどの外食が、食事体験の基本となって、母の味は霞んで消える。「味覚の原点は和食」などといった発想はない。イタリア料理、中華料理、フランス料理、韓国料理。何でも美味しければよいではないかと人は開き直る。我が家の定食なぞ要らない。テレビの宣伝とお店の売り込みが判断の基準。そして子供が最終決定をする。

 「嫌いなものが全く出てこない我が家の食卓は、子供達にとって安心と満足の世界」と思って、親も満足でいられるのは、その後数年間限りのこと。少なくとも木更津社会館保育園は、栄養士が決め園長が承認した献立を、理由なく拒否することを子供達に認めない。子供達の好き嫌いを認めない。用意された食事を、好きでも嫌いでも、「お腹が減った!」と言って平らげることが子供達に求められている。「飢えたる者は食を選ばず」と孔子様は言われた。食前の子供達が充分に空腹であれば、既に味付けの半分は終わったと同じ。そして専門の栄養士によって事前に計画され、人として、日本人として是非知っておいて欲しいメニューが日々出されているとしたら、6歳児の目に映った印象を評価基準にするなんておこがましいし、子供が食事が上手いか不味いかを判断するなぞ、あってはならないことではないか。母が作った物が、そのままで美味しいのであり、子供の異議申し立ては早すぎる。子供の味覚は、まだまだ限定固定化されていない。様々な食事体験を重ねながら、日本人としての基本の味覚を子供達は体得すべきだ。古来、何よりも食事は地産地消を基本としてきた。人が生きる地点から30キロ以内の食材によって、人の健康・命は作られてきた。私達にとって、それは和食であり、米・魚・海草・野菜等であった。子供達は、知らず知らずのうちに、この伝統の母の味を自らの味覚の基本とすべきなのだ。サイゼリアが味の基準になってはならないのだ。

 

カ 「ご飯を食べると馬鹿になる。」慶応大学医学部某教授

 1971(昭和46)年、日本マクドナルド1号店を銀座三越に出店した初代社長藤田田氏は、9歳までに人の味覚は決まるから、ハンバーガーを先ず9歳以前の子供達に食べさせることで、その消費量を拡大したいと公言していた。和食ではない、牛肉を中心におくハンバーガーを主食にして生きていく日本人を育て、アメリカと同様の食文化を日本に定着させたい。ご飯や味噌汁や漬け物は、時代遅れの、日本にしか通用しない食文化だと藤田社長は確信していたようだ。

 それ以前には「ご飯を減らしてパンを食べよう」運動、「味噌汁よりも牛乳がよい」運動もあった。主食がパンになれば当然、人ば味噌汁を敬遠して牛乳を飲むものだ。完全にこれらの運動宣伝は連動していた。「ご飯を食べると馬鹿になる」と断言する研究者が慶応大学に現れた。味噌汁は高血圧の原因になると宣伝され、保健所栄養士が各家庭にまで入って指導をした。和菓子より乳脂肪分たっぷりの洋菓子の方が高級イメージになった。魚の料理は面倒だ。肉と砂糖の消費量が増えるのと反比例して、お米の消費量はかつての半分になっていった。そして、小児成人病(今は「生活習慣病」とぼかされている。)の激増に続いて、20歳台30歳台、或いは更年期の女性の乳ガン・子宮がんが激増し始めた。この40年の間の生活様式(運動不足・夜更かし)と食習慣の洋風(高タンパク・高脂質)化が日本人の病気の風景をも激変させた。

 1977年アメリカ議会上院は、医療費があまりに増えすぎていく現実を真剣に調査分析して、国民の健康対策・医療費抑制策として、日本の伝統食がよいと言い出した。その調査報告書では、「1日のエネルギー摂取の6割を炭水化物にする」ことが推奨されていた。これは、日本流に解すれば「毎食ご飯を食べよ」と言っているようなものだ。そして1993年にはアメリカ政府が「アジアの伝統的な健康食」を推奨し始め、アメリカ国内では、すしや魚料理のレストランが大繁盛し始め、増加するばかりだったガン死亡者数を減少に転じさせるのだ。

 遅れて、医療費の高騰が明らかになるや、日本政府もアメリカの和食重視方針に追随する。2005(平成17)年6月のことだった。食事面での伝統回帰は、もはや日本人にとって死ぬか生きるかに拘わる重大な課題となっている。「美味しければよいではないか。人が好んで選んでいるのだから、自己責任で済ますしかないではないか。」という言葉を吐く人は、砂糖一杯の甘味飲料・覚醒剤・タバコや売春(援助交際)についても、同じ論法が成り立つことに気付いているのだろうか。

 社会館保育園給食室は、日本政府の方針逆転を是とし、今まで同様に魚料理を重視し肉料理を注意深く使っている。2008年度より、たくさんの野菜を具にした味噌汁を毎週1回は出し、3歳のワニ組以上は三芳村からの配給野菜が余った時には、クラス独自で味噌汁を作っている。納豆を嫌いな子供がいることに気付いた2008年からは毎月1回納豆を出すようになり、主食は明らかにご飯が合う献立が多くなっている。日本のパンがヨーロッパの丸パン・フランスパン・黒パンとは違う、砂糖やバターがまぶされたお菓子のようなパンになっていること、市販の牛乳の多くが100度を超す高温殺菌を受けている、ヨーロッパの常識では「牛乳ではない牛乳」となっていることも、園長宮崎が明らかに知る所となった。2歳以下の子供達の牛乳が、マザー牧場の低温殺菌牛乳になって久しい。請西の森の分園の下の田んぼの減農薬米を、2009年秋から時々、3歳以上児が食べるようにもなった。社会館に設置された精米機で、子供達が見ている前で精米がされるのだ。

 

キ 子供達は、誰からも束縛されるべきではない論

 「子供達は、自分の好きなものだけを食べていればよい。」という考えは、「人は自分が好きな人たちとだけ会っていればよい。」「人は自分がしたいことだけをしていればよい。」と膨らむ。旧憲法下で、女は独立した男と結婚するのが当たり前、結婚相手は親が決める、子供の人生を決めるのも親であったのが、1948(昭和23)年ひっくり返された。あらゆる場面での自己決定が男女ともに許されて、全ては自己責任、自業自得するようになった。親達は子供達の人生に関与せず、期待せず、その結果にも責任は負わない。「自分が正しいと信じたことは、人から何を言われようとその道を行きなさい。」(イギリス人女性殺害事件容疑者市橋達也の母の言葉)とだけ教えて、知らん顔。自己決定の前提となる価値判断、正邪の判断の基準は教えない:価値中立が戦後民主主義教育の優等生の態度。決定の基準を与えられずして下される決定が、自己中心、自分優先、自己本位になるのは、自然の成り行き。神仏を遠ざけられ、先祖からの子孫への切なる思いを知らされずに、生命のほとばしりのみを頼りにすれば、結果は自ずと知れたもの。躊躇なく弱い者をいじめ、人の幸せを蹂躙して平気な、野獣たちの世界が、今、日本のあちこちにに広がっているかのようだ。

 木更津社会館保育園は、昔のようにしつけを優先しない。むしろ、生命のほとばしりを大事にする。子供達の自己感情、自己判断、自己決定を促し自己満足を良しとする。そのおおらかな雰囲気の中で、焼き鳥の串のようにぶすりぶすりと貫き等されていることどもがある。

 ① あいさつ:人と人の繋がり支え合いののキッカケ

 ② 弱い者達・挫けそうになっている仲間達への思いやり、励まし

 ③ 感情の共有・交流・連帯:人の喜び・悲しみ・苦しみがそのまま私のそれ

 ④ 仲間・大人・世界への基本的な信頼感、決して絶望しない責任感・楽天性・自信

 ⑤ いざというときの自己犠牲の覚悟・予感

 社会館の子供達には、このような数本の串が心の底まで差し込まれている。彼等の人生を貫いて変わらないであろう人生の価値判断の基準が、はっきりと示されている。「これは躾でしょう。」と言われれば否定はしないが、「躾以上」を我々は狙っている事はお分かり頂けるだろうか。