6 「民主主義は多数決のことではない。」と知った衝撃2つ

(1)「仮説実験授業」が城丸先生の体育の授業と同じように、民主主義教育の一環であったことは、私に大変な衝撃であった。「民主主義とは多数決のことだ。」と私は小中学校教員達から教わっていた。「多数決で人びとは正解を決定してよいのだ。」と。「仮説実験授業」は実験前の討論のあと必ず、多数決を採ってから実験をした。その際、必ず少数意見もはっきりとさせておくのが、この手法の特徴であった。そして驚くべきことには、実験結果は、「多数決が常に正しいとは限らない」ことを証明してしまうのだ。

 つまり、国会等における多数決とは、「総意を、便宜的に決定しているとしても、常に正しいことを決めているのではない」ことを「仮説実験授業」は生徒達にはっきりと教えてしまうのだった。40名の生徒中ほんの3名しか同意しなかった答えが、実験の結果正しいとされることがあるのが、科学実験である。多数派である残る37名の意見が、間違っていたことが分かった時の生徒達のショックは大変なものがある。たとえ3名でも正しいことは正しいと「仮説実験授業」は教えてくれる。それは「それでも地球は動く。」と呟いたガリレオガリレイの心中を追体験することでもあった。「科学的な真実は、コンセンサスでは決まらない」(クロード・アレグレ)のだ。

 

(2)私が受けた戦後民主主義教育が孕んでいた、もう1つの欠陥を知らされたのは、木更津市保育協議会が主催して「人形劇の全て」を学習しようとした時であった。その指導者として東京から招かれた方(もはやそのお名前も記憶しておりません。済みません。)が、人形劇講座の始めに言われた一言が、私の頭を貫通した。「先ず始めに、誰か1人を選んで下さい。その方の役割は、シナリオや音楽や人形の雰囲気などを決める時の最終決定をすることです。映画の監督や音楽会の指揮者は1人でしょう。小説は多数決で作られていますか?1人の作家が作ります。人形劇にも監督に当たる役割が必要です。それは独裁的でなければならない立場です。」

 全ての決定は、常に「民主的に」多数決でやるとだけ、小中学校で学習してきた私は、独裁者の存在が許されるどころか必要である場合があることを知らされて、驚くばかりであった。その後、ある雑誌の編集長が、編集会議を「民主的に」開催して、結局クビになったことも知った。彼は、編集会議が次号の編集方針を巡って紛糾するたびに、多数決で決定を繰り返し、自ら判断することがなかったらしい。雑誌の売り上げは激減して、自分の首を絞めてしまったのだ。

 雑誌の編集長の役割は、小学校の学級会の司会者ではなかったのだ。会議が紛糾したら、多数決に逃げ込むのではない。参加者の意見を充分に聞き取った上で、編集長自ら最終方針を決断すること。最後の孤独な決断を出来る人が編集長となるのであった。

 保育園の保育は、芸術・雑誌・オーケストラと同じ、と私は考えた。「孤独な独裁者でしかありえない、オーケストラの指揮者と全く同じ」保育園園長の役割の厳しさ、そして楽しさを思い知らされた人形劇講座であった。