平等論

 「人々は神の前に皆平等だ。」と言われて、戦後の日本人は、「神の前に」を外し「人は皆平等だ。」と思いこんだ。そこには神に対する恐れも、恐れに由来する緊張も、平等自体を常に問題にし検討するという強迫観念もなかった。それはぐずぐずだらだらの平等論と言ってよかった。それは一切の上下関係を無視して善いとするもので、弱い者も強い者も平等であるとする、非常に乱暴で無慈悲な振る舞いを日本人に蔓延させていった。

 無知な者が自己の無知を恥じず、強い者が自己の強さを平然と行使して恥じず、我が親子はお友達だと思いこむ父母が現れた。親子が友達のように呼び合う例が出始め、親達が子供達を指導しなくなった。指導するための、親になるための勉強もしなくなった。30才になって親になりながら子供のままで平気。子供達が子供達を育てる風景が珍しくなくなった。その子供達は、正に「夜郎自大」で生意気そのもの、実に態度が大きい。状況判断も不十分、何かがあれば甘えて自己処理をしない。全てが子供のままで、振る舞いだけは生意気なアンバランス。本人は気付かないおかしさ。我慢なんて勿論しない。礼儀なんて親が知らない。子供も知らない。状況判断がどうもおかしい。やはり自己中心。実に見事な程に自己本位。それは厚顔無恥そのものだが本人は、ニコニコと恥知らず。