社会館「始まり始まり」物語 (1~37)

 

始まり始まり(1) 1978年度雑巾掛けを5歳児が始めた。

 日体大の正木教授が小学生の姿勢が悪い、長く立っていられない、土踏まずが出来ていない例が増えている、と発表されていた。ポーランドからの報告に、腰痛対策として雑巾掛けが良いというような話が聞こえていた。私は、職員会議で提案して、年長組が雑巾を家から持ってきて、廊下を1日に1回拭くことを始めて貰った。1979年度からその成果を実証するために、誕生カードにお子さんの足形を加え、子供の土踏まずが順調に出来上がっていることを親達にお伝えし始めた。現在は、3歳後半から始めており、雑巾を竹刀を持つように絞ることも重視している。右手と左手の分業・連携が精緻化されることを目指しているのだ。雑巾絞り、雑巾掛けは子供の身体発達を促すための1つの大切なコースだ。

 

始まり始まり(2) 1978年度 すずかけ文庫が創設された。

 当時は、紙芝居よりも絵本が重視され始めた頃だった。卒園された将棋面さんの母より30万円が寄付されてあった。日販本社倉庫で絵本が購入されて、すずかけ文庫は始められる。専用の図書室としては給食室側の旧保育室を当てた。が、貸し出しは旧園舎の33畳のお座敷で行われた。土曜日の昼頃に貸し出すと私が決めたが、職員は「余裕がない」と同調してくれなかった。そこで母の会に「図書委員」を決めて頂いて、替わり番で貸し出し事務をして頂いた。返却された絵本の始末は私か主任がしていた。その内、保育時間中に貸し出しても良いと気付いた職員が、「図書委員は要らない」と言い出したので、保母達の中から図書係を決めて貰って、今日に至っている。貸出業務は、担任が行い、返却業務は、早番の先生にお願いしている。購入絵本の選定等は、担当の係の保育士達がしている。

 

始まり始まり(3) 1978年度 サクラ・サクランボのリズムを始めた。

 勤務2年目4歳児担任の平方保育士にお願いして、リズムのピアノ練習を始めて貰った。4歳児だけ試行して運動会でリズムをご披露した。ピアノ平方、演技宮﨑の分担だった。観客からは、「何をやっているのかさっぱり分からない。」とさんざんだった。が、子供達の反応は悪くなく、平方先生も段々乗り気になってくれた。翌年10月から全園児が始める。但し当時社会館保育園には3歳児以上しかいなかった。

 1973年頃私は、深谷のさくら保育園の分園、出来たての頃のサクランボ保育園に伺った。背広を着て千葉県君津支庁社会福祉課社会係保育所監査担当職員として1人で視察に行った。斉藤公子先生は、子供達のリズムを見学していた私に「宮崎さんも一緒にやりなさい。」と言われた。25歳の背広の男が、一緒にやってみて「リズム」はとても心楽しいものだった。終わって「けいこちゃん」という名の障害児が、私について離れなくなった。それを見ておられた斉藤先生は、「あなたは県庁の役人には合わないでしょうから、辞めたら、ここに来なさいよ。」と仰った。リズムは、保育所の子供達にぴったりの課題だと私は思った。県職員であったが、その後何度か夜6:00から保母学校(深谷駅近くにあった「さくら保育園」で実施されていた。)に通った。

 斉藤喜博先生の世界がそこにあった。皆真剣だった。講師の丸山亜季先生の指示・言葉が知的だった。リズムのレッスンだというのに、歩行のレッスンから入っていた。ピアノの弾き方が、先鋭且つ情熱的であった。最初の数音でそこにいる子供達大人達の心を、雲の上に載せていた。

 

始まり始まり(4) 1978年度 グランドピアノを買った。

 当時保育所の楽器の主流は、オルガンだった。確か富津市立佐貫保育所にはエレクトーンがあって、名人錦織先生が活用されていた。が珍しかった。たまたま社会館の予算に余裕が出来て主任の田中茂子先生から「どうしますか」と聞かれた私は、三十三畳のお座敷に置くと決めて大きなピアノ1台を手配した。深谷のさくら保育園のリズムを社会館でやってみたいと思っていたのだ。お座敷での(社会館保育園の歴史上)最後のお遊戯会が終わって、座敷の正面に床下を補強して貰って、ドンとグランドピアノを置いた。1982年新園舎ホールにて「公開リズム」が始められるまで「お遊戯会」は中止されたままになる。

 ピアノも2台目は、櫻井光福寺の奥様であってピアノの名手でもある守麗子先生から、1台のコンサート用のグランドピアノを斡旋して頂いて今日に至っている。

 

始まり始まり(4’)1978年度 保母学校を始めた

 旧園舎のお座敷に1台のグランドピアノが鎮座した。こんなすごいものを買って何をするのかと誰もがいぶかった。保母たちの中で最もオルガンが上手な田中茂子先生は、ピアノの名手ではない。私は、さくら保育園で実施されていた保母学校を再現したいと思った。テキストは群馬音楽教育の会が発行していた『授業のための歌曲集』を使う。指導者のイメージは、斉藤喜博と丸山亜紀。私が頼ったのは、木更津第一中学校時代の音楽教師船田先生。とにかく始めることが大事。1978年9月29日夕方1時間私も含めて全職員が集まった。以来40年毎月1回の保母学校が続いている。守麗子先生・金子圭子先生と指導のバトンが引き継がれ、現在は、千葉から東京の歌舞団に関係する伊藤敦子先生にお越しをいただいている。

 丸山亜紀先生のお考えは、子供は走るもの、といい、子供たちの内から溢れ出る活き活きしさを音楽で表現させようとされていた。①音のテンポが速いことを子供は好む。②途中に転調があることを子供たちは好む。③歌詞は子供たちが歌の主人公になれるのがよい。以上3つの原則から、社会館保育園での既存の歌がほとんど捨てられた。

 保母学校の目的は、歌曲の改革のほかに、職員の教養レベルの向上があった。職員の人生の充実のための道は多々ある。読書会・お芝居等の鑑賞・旅行・俳句。職員の好みもある。何でもよかった。歌の練習が始まって、コーラス・和声による感覚体験になるかと考え始めた。が、声がなかなか出なかった。コーラスに快感を感じる職員が増えなかった。今、伊藤先生のもとで、美しい声が出始めている。子供たちも怒鳴らなくなって数年になる。2007年10月28日NHK放映のドキュメンタリー『里山保育が子供を変える』では、まだまだ怒鳴って歌っている子供たちが紹介された。「社会館は普通の平凡な保育園だ。それでも里山保育はできるのか。」と人に思わせるのには最適の映像であったが、指導者伊藤敦子先生は、それを見逃さなかった。有難いことである。

 

 

始まり始まり(5) 1979年度 木製の椅子を購入し始める。

 3歳クラスから1年ごとに、順次鉄芯のイスを木製の椅子に変えていった。サクランボ保育園の広大な園庭の隅にあった工房の主:松本さんがデザイン製作した椅子。妻、ハルエが運転する自家用の乗用車で埼玉県深谷市の郊外、桑畑だらけの大谷という所(そこにサクランボ保育園はあった。)まで買いに行った。 この椅子は優れもので、0歳から大人までその高さを変えて使える設計になったいた。椅子としての用途以外に、オブジェにも机にも何にでも使って良いのだった。右足が不自由のようだった松本さんに「この椅子は椅子に見えませんね。」と私は申し上げた。「私はこれを椅子としてデザインしたつもりはないのですよ。これをどう使うかは、子供達が決めることです。」明らかに斉藤先生から椅子を注文されたはずなのに、松本さんは不思議なことを仰った。

 「椅子で遊んで良いのなら、机で遊ぶことも出来る。」と私は理解した。椅子は椅子だから椅子なのではない。椅子として認識されている限りに於いて、椅子なのだ。そのものの名称にとらわれず、その機能性と時々の有用性に着眼する力を子供達に求める発想は、サクランボ保育園園庭の南の隅にあった松本工房での松本さんの一言から発している。

 絵本棚も、雑巾掛けも子供用の机も松本さんから送って頂いた。因みにハイハイ板は、アイデアをさくら保育園から頂いて、木更津の秋元木工に作って頂いた。

 

始まり始まり(6) 1979年度 鞄を変えた。(これは迷った。)

 肩掛け鞄をリュックサック式の鞄に変えた。当時自転車での送迎が主流だった。自転車の荷台の子供が肩掛け鞄を、走行中に肩から外してしまうことがあって危険だった。私の保育イメージでは、肩掛け鞄は小さすぎた。市販のリュックサックでも良かった。がスモックの廃止を考えて、出かける時の統一イメージを確保するために統一された鞄、リュックサック式の鞄を選んだ。全園児がお揃いの紺の鞄を背負っている姿に抵抗を感じる方がいる。皆がそれぞれ好きなリュックザックを背負っているのは、さくら保育園のやり方だ。私は、多様性の中に部分的な統一性があることを良しとした。それぞれの鞄にアップリケなどを付ければ、鞄の個別性は担保されるではないか。

 

始まり始まり(7) 1979年度 クリスマス会を止めた。

 日本人がクリスマスを祝って、クリスマスツリーを飾り、ケーキを作り、ダンスパーティーを開催し、声を合わせて「メリークリスマス」と言い、サンタクロースのプレゼントをお願いしたりし始めたのは、キリストの誕生日を祝い、キリストが処女マリアから生まれたことを、唯一絶対の神に感謝するためではない。

 日本を占領していたアメリカ軍に媚びを売り、アメリカ軍に対して逆転反撃の意志がないことを「ご了解頂く」ためだった。そのために昭和天皇陛下は、皇后陛下と共に聖書の勉強会を始められたし、日本人達の何人かは、アメリカが尊び敬うキリスト教の神を信じてみたり信じた振りをしたりした。そこまで出来ない人たちは、せめて異教のクリスマスという不思議で楽しそうなレクリエーションを真似たのだ。要するにアメリカ軍の機嫌を損ねることを恐れていたにすぎない。

 今、ダンスパーティーが廃れ、クリスマスケーキが売れなくなり、クリスマスツリーよりも賑やかなホワイトイルミネーションを煌めかせながら、松飾りとクリスマスリースをごっちゃにして、日本のお正月よりもクリスマスが優越しているかのように振る舞ったり、見事な程に無節操無教養無分別だ。これは結局、キリスト教に対する冒涜だと私は受け止めた。県庁時代、年末になると海外に出た。12月24日を挟む2週間、3年連続でドイツにいたことがあった。クリスマスを祝うドイツ人達の真摯さ。子供達はピアノではなくパイプオルガンを習っていた。24日夜の正餐の質素なこと!夜、私を置いてけぼりにして人はいそいそと教会に行ってしまった。というわけで、木更津社会館保育園は、クリスマス(キリストの誕生日)を祝う会を止めた。

 補。1970年頃のソビエット連邦の首都モスクワ(初めての海外旅行体験)のクリスマス風景も私の判断を後押ししたことを記しておきたい。正にそこは秘密警察の母国、共産主義者達の祖国。宗教そのものを麻薬と断じる憲法を掲げる国。その首都モスクワに1本のクリスマスツリーがそびえ立ち、1人のサンタクロースがいた。しかも本物のの雪橇に乗って、彼は私の前を走り抜けた。イエスキリストの誕生を祝うはずがない共産主義者達の国ソ連邦が、サンタさんを展開している。

 「余り(賢人達は)深く考えなくてよい。(愚民達が)楽しければよいではないか。」と共産主義者達は言っている。では、私も「余り深く考えなくてよい。」ことにするか?共産主義者達の判断の根っこに、宗教への侮蔑と拒否の気持ちがあるとするなら、「楽しければよい」の真意は、「宗教への冒涜」でもあることは明らかだった。私は共産主義者にはなれない。やはり「冒涜」は止めよう。というわけで、「クリスマス」の「お楽しみ会」を木更津社会館保育園から削除する方針は、維持された。

 

始まり始まり(8) 1980年度 竹馬開始。

 これも斉藤公子先生の実践をそのまま頂いたものだ。但し、導入方法や目標設定は全く私達の独創による。最初は数本の竹馬が作られてあって、乗りたい子が乗ればよいというものだった。足台はシュロ縄で竹に結ばれてあって、その高さ1段は最後まで変わらなかった。

 次に、それらの数本の常識的な竹馬を練習専用車にして、連続100歩を3回できたら、1人1人に自分専用の竹馬が与えられるようになる。自分用は子供達各自が園長の指導の許、自分で切って製作する。組み立ては園長がするが、竹や板の加工は、子供達の仕事。

 というわけで、毎年数名は大人の身長以上の高さにその竹馬の足台が上げられるようになっていった。竹の節3段がスタート(練習用竹馬は、節1段から始まって3段で終わる。)で最高8段を子供達は目指す。「落ちたら大変だ。」と大人は身構える。子供達は「やる!」という。とても怖いはずだが、彼等は、真っ直ぐ私の顔を見て「やる!」と言う。保育園生活最後の決定的瞬間。私と担任達は、(落ちたら必ず受け止める、と)覚悟を決めて「やろう!」と応えた。

 あれから35年以上が経った。結果は、35年間に3名が、2,5メートルほどの高さから落ちた。落ちた子らは、落下の苦痛から回復するのに15分ほどを要したが、復活挑戦してくれた。問題は、歩き始めの数歩のところ。介助者もちょっと油断する助走区間。介助者の油断は、園長の責任。園長の気迫が足らないから、職員が油断するのだ、と今でも気を引き締めるのです。

 

始まり始まり(9) 1981年度 上履き廃止。

 幼稚園の源像は学校であり、保育所のそれは乳児室だ。乳児は上履きを履かない。家にいても普通日本では裸足(含足袋裸足)だ。床が畳であればなおさら上履きは不自然だ。土踏まずが出来ない原因として靴の履きっぱなし生活が上げられていた。土踏まずを作るのには、裸足での雑巾掛けが推奨されてもいた。足は拘束されなければ、扇形に広がって成長する。小指の変形も起きない。上履きを履いていると床面の不快さに鈍感でいられる。裸足では、床は綺麗にせざるを得ない。

 室内での裸足は、園庭での裸足に繋がっていった。室内から気楽に子供達は裸足の儘外に飛び出していくようになった。足を洗うための沢山の足洗い場は、子供達の水遊び場となり、水遊びの流行は、子供達を裸に誘導した。「パンツ一丁」はこうして何年もかかって定着していったものだ。私の関心は土踏まず=親指の形成にあった。そのために常時裸足が奨励され、園庭で裸足ー砂遊び・水遊び-泥遊び -泥水遊びと子供達は徹底指向性を発揮。そこに職員の一言、「洋服が汚れるから、パンツ1丁になろう。」で現在の保育になった。

 今の謂わば「はだか保育」は結果であって、目的ではない。幼児達にとって、はだかで集団活動する「裸の付き合い」の精神的な意義はあとからついてきた気づきだ。自閉傾向、引きこもり傾向が強まるばかりの現代日本にあって、「裸一貫」の自己をお友達の中で、日々、生き遊び自己発揮することの有効性は明らかだ。むき出しの姿は、子供の「心そのもの」をお友達に向けてむき出しにする。「パンツ一丁」の子供達が、心と心を触れあい、ぶつけ合い、擦(こす)り合い、時に傷つけ合っているとしたら、その精神は相当に切磋琢磨され鍛錬陶冶されていくだろう。

 しかし社会館は「はだか保育」の保育園と言わない。裸体操をしないし乾布摩擦もしない。大事なのは、ア裸足であり、イ濡れること汚れることなのだ。だからむしろ裸になる前に、衣服をびしゃびしゃドロドロにして、尚全く気にせずに遊び続ける子供達を、私はとても尊く羨ましく愛おしく受け止めるのです。「あらあらこんなに汚してしまって!」と母に言われて、パンツ一丁にされて、また懲りることなく遊びに行く子供達が日本国内に溢れてほしい。一心不乱の時間が長い子が好ましい。濡れ汚れることを恐れ、戦々恐々と生きる子供達が痛ましい。「汚いは綺麗。きれいはきたない。」マクベス:シェークスピア

 

 

始まり始まり(10) 1982年度 朝の体操を廃止、「お片づけ」は3:00だけに。

 朝9:00になると園庭のスピーカーから体操の音楽が流れて、クラスごとに集まった子供達は、担任と一緒に朝の体操をしていた。その後各部屋に入って「おはようございます」をして出欠を採って貰ってから、クラス単位で一斉保育というコースが決まっていた。

 4月下旬、園庭の外スピーカーの調子がおかしくなった。直ぐ電気屋さんに直して頂いたが、また故障。6月に3回目の故障が起きた時、私はひらめいた。「これは天啓だ。」と思った。「天が体操を止めよと言っている。」私は修理を止めた。

 7月から、朝の体操と共に「おはようございます」も出欠も、一斉保育も廃止した。「おはよう」は登園時に終わっている。出欠は鞄の有無で確認する。一斉保育は散歩になった。子供達は「散歩」にでるまでは、登園時から自分のペースで遊べるようになった。かくして午前中の保育の中断が1回だけになった。絶えざる保育の中断が、子供達の集中力・持続力・根気・徹底性の涵養を邪魔している、と私はにらんでいた。

 「お片づけ」というのが、朝の体操の前、昼ご飯の前、おやつの前に、毎日3回あった。これを3:00のおやつの前1回だけにした。しかも、時間外保育の後の片づけをこどもたちにさせず、出来る範囲で時間外保育担当職員がすることとした。これで子供達は精一杯集中と持続の時間を遊べることになった。1日に1回の片づけを嫌がることはなかった。

 夕方7時直前。ホールは大型積み木などで巨大な作品が作られ、そこで子供達は遊んでいる。保護者が迎えに来ると子供達は作品をそのままにして帰っていく。片付けはなし。なぜか。

 60年前、私の母の実家ー野田市に大師山保育園があった。母の里帰りの度。保育終了後の大師山保育園のホール。大型積み木すべてを独り占めして私は遊んだ。智慧の限りを尽くしてすべての積み木を並べ積み上げ、使い尽くして遊んだ。その成果を残しておくと必ず、「片付けなさい。」と命じられた。「せっかくこんなに面白いのができたのに。明日これで保育園の子供達は大喜びで遊べるのに。」と思って私はいつもそのまま作品を残すのだが、必ず見つけられて「片付けさせられた。その無念が今「片付けなし」となって社会館保育園のホールに生きている。夕方遊んだ続きを、明日朝続けて遊べる幸せを社会館の子供達は生きる。

 外スピーカーは運動会や非常用で使われるので、後日完全修理するのだが、朝の体操は復活しなかった。 

 

始まり始まり(11) 1982年度 公開リズム開始。

 1979年年3月お遊戯会で3歳児2名がおべべを着て童謡を踊った。関係の保護者達は大変喜んでいた。が当該の子供達は全く楽しんでいなかった。先生にいわれたことを素直に踊って見せていた。私は、子供達の心の中を想像して、涙が出るのを止められなかった。「猿回しのサル」と同じだと受け止めた。木更津社会館保育園のお遊戯会はこの回を最後に、私の感覚によって廃止された。

 2年間の中止と3年目の仮園舎生活を経て、廃止していたお遊戯会の替わりに、新園舎の大ホールで各クラスのリズムを公開。お遊戯会よりもずっと良いと評価された。主役脇役の区別がなかった。子供達が活き活きとしていた。観客と子供達・職員が一体となっていた。我が子が集団の一員として集団を支えていることが実感できた。お遊戯会の代わりになった公開リズムは、後に年に3回実施されるようになる。

 

 

始まり始まり(12) 1983年度 卒園児のための「子供クラブ」を開始。

 社会館を卒園した1・2年生を集めて同窓会を数回始めた。学校よりも社会館の暮らしの方が面白いということだった。小学校生活の絶望感を癒すために、「子供クラブ」を続けている。

 

始まり始まり(13) 1984年度 太鼓の集団「荒馬座」を呼んだ。(これも迷った。)

 保育園児に太鼓の音は好まれるのではないかと私は思いついた。自信はなかった。少なくとも、子供達が自分で打つべきだとは思わなかった。(マラソンと同じで、太鼓打ちは中学生以上のテーマだと私は今も考えている。)果たして「荒馬座」の公演は大変な反響で迎えられた。障害児が和太鼓に反応することを知らされた貴重な企画でもあった。未だ和太鼓が流行る前であったが、子供達も親達もその善さを分かってくれた。

 

始まり始まり(14) 1985年度 給食の完全自由盛り開始。

 4歳児の11月より、おかずを子供達が自分でよそうことを、園長は認めた。分量の多少を自分で決められるようになって、小食の子たちが救われ、嫌いなものがある子たちも救われた。「嫌いなものは食べなくても良い。」と園長は言わない。「嫌なものでも1口は食べる」というルールは決められていた。が、とにかく1口でよいと思えるだけで、食欲の減退は防げるものだった。この園の残食の少なさの理由の1つが、たぶんこれだ。

 クラスの全員が、毎日同じ分量を食べるというアイデアは、寒暖・安心不安・幸不幸を生きる現実の子供達を無視した、机上の空想の産物だ。栄養所要量も1日単位にすると非現実的となる。せめて月単位での判定の方が、現実に即するものとなっているだろう。

 そもそも、肝心の野菜の栄養価基準なるものが、どこかの地域の平均値に過ぎないし、しかも昨日今日の数値ではないのだから、もうそこで現実と計算基準とを比べることのむなしさに人は気付かざるをえない。計算結果は、一応の傾向を予測させてくれるだけで、本気で何かをそこから読み取るのは危険かも知れない。

 だいたい栄養価基準通りの栄養分を子供が摂取したとしても、その内の何割が身に付くのかは、神様だけが知るところらしく、栄養学者はそんなことには全く関心を示さない。自分の栄養価計算が破綻する可能性を彼等は予感しているからだ。ということで、自分の必要栄養分を子供達は本能的に決めている、と私は考えることにしている。敢えて言えば、「子供の食欲が主で、保健所の指導は従だ」と考えながら、保健所の指導を受け止めよう。

 

始まり始まり(15) 1986年度1人別の「連絡ノート」を止めて「クラス便り」に変えた。

 3歳クラス以上(現在は1歳クラスから)個別の「連絡ノート」を止めた。1人1人の動きよりも、仲間全体の中で我が子がどうしているかを親達は知りたい。全体の状況を、個々の子供達の名前をこまめに織り込みながら活写して親達に伝えることとした。

 「連絡ノート」の記入は、子供達1人1人に毎日されており、職員は昼に休む暇もなかった。これは労働基準法上でも改善が必要であった。親達の願いと職員の勤務態勢の事情から、「クラス便り」は産み出され成功した。各クラス、週に2/3回、クラスによっては、年度初めには毎日発行されている。

 

始まり始まり(16) 1986年度 屋上に5×9メートルの大プールを設置。(不潔~清潔)

 4月以来の泥遊びを、清潔なプール体験で終わらせて上げたかった。綺麗なプールに入る前に、汚れた泥水遊びを徹底的にしておくことが、子供達の精神を柔軟且つ強靱にすると私は仮定している。清潔願望は、汚れ願望を充分に満たされて後に、初めて充足されると感激的に反応する。「わー綺麗!」といって清潔な水に子供達は飛び込んでいく。

 不潔を知らないまま与えられる清潔状態は、自壊崩壊しやすく、もろくあっけない終わり方をする。清潔状態は一種の緊張状態である。内発的な清潔志向なくして、健全な清潔体験の維持は困難だ。不潔体験なしの清潔生活は、汚れ、不潔を恐れ忌避する精神を生む。潔癖も度が過ぎれば、病気となる。

 本来、程々の汚れ願望を人は持っている。不潔さへの程々の鈍感さが、実際の社会生活を支えている。この汚れ本能と鈍感さを失って人は苦しむことになる。電車のつり革もドアの取っ手も洋式トイレもばい菌だらけに思えて触れない。食堂の割り箸(人の指が触れている。)も自動販売機の缶ジュース(特にプルトップのふたが内側に曲がる構造)も不潔に見えて口を付けられない。大体、空気中に浮遊するばい菌・ウイルスのことを思ったら呼吸も止めなければならない。というわけで、30分おきに手を洗い、マスクを一年中外さない暮らしということにならないためにはどうするべきか。「完璧な清潔志向は身のためにならない。」と覚ること。幼い時に、過敏な清潔志向を学習させないこと。何でも程があると言うこと。生きることを楽しもう。夢中で生きよう。つり革のばい菌など気にしている余裕のない充実した日々を送ろう。

 

 

始まり始まり(17) 1987年度 事務室に大机を置いた。

 事務机は園長・主任・栄養士・会計事務担当以外は共用を原則とした。1台45万円の特注で秋元木工所が作ってくれた。費用は宮﨑識栄元理事長が出して下さった。15名規模の職員会議も可能で、1枚に見えるテーブルを間にして、参加者の気持ちを交換させ一致させるにはとても良い感じだ。私も事務担当も一時保育担当も、誰もが使える共用空間は重要な役割を果たしているかも知れない。各職員が自分の机を独占して、そこにしがみついて仕事をしている光景は、時代から取り残された職場の証明と言ってよい。本田技研にこのモデルがあることはご存じの通りです。

 

始まり始まり(18) 1988年度 スモックを廃止。(業者への配慮で苦しんだ。)

 ヨーロッパの国々の公務員達が、鉄道関係や警察関係を除いて私服であることは、とても印象的なことだ。公務員の一色に塗られたマントに隠れずに、彼等は一人一人自立しているという印象が爽快であった。

 ユニフォームを最初に使ったのは、軍隊・警察そして刑務所の職員及び囚人達。目的は、個性をなくして、その一色の存在理由を集団で発揮させるため。一色に染まる必要がない保育所・幼稚園の子供達が、ユニフォームを着る必要性はないと私は判断した。園側はユニフォーム=園服の「汚れを防ぐため」といいながら、登園すれば園服を脱いで暮らしているのだから、やはり保育上の目的はないのだ。帽子を含めて、その子の存在を確認しやすくしているとも言われるが、都会の雑踏の中に入っていくのなら分かるが、園の庭では不要だ。帽子の色でその子供の所属クラスを判別している保育士は専門家といえないと私は考える。そんな認識力の保育士等に我が子を任せたくない。子供達の帽子の色で保育をするという発想を私は忌避する。保育所は刑務所ではない。

 

始まり始まり(19) 1989年度 卒園証書の画を本人の画にした。

 市販の一律の証書から、各年度で一番素敵な画を選んで印刷した社会館独自の卒園証書へ進化して数年。くじら組の全員が自己の画と言える画を残していると気付いて、この年から全ての証書に本人の画を添付して仕上げるようになった。すべての証書の絵が違う多様な仕上がりとなった。

 月刊誌「ソトコト」2012年5月号56ページにホールに広げられた卒園証書群の全景が掲載された。(4月発売の5月号の)取材が3月の卒園式直前にはいった。子供達全員の絵が揃い、各自の卒園証書にそれぞれ貼り付けられて、卒園式の日を迎えるまで1週間もない。

 たまたま全部の卒園証書をホールに並べて、全体の雰囲気を確認しようとしていた時に、「ソトコト」のカメラさんが来ていた。卒園式の日には丸められて、誰も中身を見ることができない卒園証書達の全景が月刊誌「ソトコト」の56ページに大々的に掲載された。2012年3月の卒園生達は幸いだった。 

 

始まり始まり(20) 1989年度 くじら組自性院本堂に2泊3日した。

 宿泊保育は、親離れ子離れの促進コースとして有効だと分かって来て、1泊2日の宿泊を保育園内や自性院で試みてきた。この年、初めて2泊を試みた。親達の動揺に比べて、仲間と一緒の子供たちの方が満足感が高かったようだ。後に宿泊保育は年間5回になっていく。うち1泊が3回、2泊3日が2回。2回目の2泊は、卒園旅行を兼ねて、雪国に行くことになる。これも偶然のきっかけから始まる。

 

始まり始まり(21) 1990年度 くじら組運動会で12面体を作った。

 時間外保育での折り紙教室が成果を上げ、ぐじら組全員が12面体を作った。1993年の運動会では3チームに分かれて3つの大きな12面体が作られ、ヘリウムガス入りの風船多数の浮力によって、3ヶの風船それぞれが空に飛んでいった。

 

始まり始まり(22) 1991年度 父の会が、大活躍開始。

 矢那川を横断してロープを張り10匹の鯉のぼりを泳がした父の会は、園庭の鈴掛の木に「秘密基地」を作ってくれた。

 2009年2月元父の会会長谷口彰嗣氏が谷口工務店の仕事として、古くなった「秘密基地」の代わりに巨大な「天狗の栖(すみか)」を製作、寄付して下さった。谷口工務店の傑作は「ゆりかもめ」東清分館にもある。分館の50坪のホールに、間口4間の巨大な戸棚迷路を製作し寄付して下さった。「天狗の栖(すみか)」は5歳児用。「戸棚迷路」は3歳児用。どちらも、子供達の心身を刺激活性化させてくれる木材を、ふんだんに使った名作だ。

 父の会の結成は、母の会会長であった、池田さんの呼びかけに始まる。その夫君が初代の会長になって下さって、主に運動会のお手伝いをお願いするようになっていた。その父の会の活性化のために、園長宮崎が発案したお仕事が、矢那川横断の鯉のぼりであった。 これは大変な仕事で、約20名の父達が参加するプロジェクトになった。朝になったら鯉たちが川の中を泳いでいたり、大風で鯉たちが絡まってしまったり、色々と改善の苦労があった。最初は珍しかったが、あちこちでより大規模な鯉のぼりが泳がされるようになったことに加えて、対岸の支えを提供して下さっていたいずみ旅館から、協力を辞めたいと申し出があったので、「この辺が潮時」とあっさりと私は辞めることにした。17年間の大プロジェクトであった。父の会の皆様に心から感謝します。

 

始まり始まり(23) 1992年度 自転車隊大旅行実施。

 1993年2・3月くじら組は3チームに分かれて、袖ヶ浦の坂戸神社・新日鐵正門前公園・鎌足の暁星学園まで自転車往復旅行を実施。翌年からは、鎌足保育園が中継点の20㎞コースに全員が挑むようになった。

 東京の双葉保育園の園児達が玉川の土手を自転車で走っている、と聞いたのは随分前のことだった。数年前から流行っていた一輪車数台をヘルメットと一緒に購入したが、なかなかうまく行かなかった。一輪車より二輪車の方が安全で運転しやすいだろうと私はすぐ考えた。1991年の秋頃から導入した自転車は、子供達・職員達に受け容れられた。そこで一年後、双葉保育園の玉川土手が、木更津の矢那川河畔に再現されたのだ。自転車は、歩くよりも実は楽チンなのだが、歩くよりもずっと快適で格好良い。

 学校は、4年生になってから練習せよと言っているらしかったが、5歳児の方が、失敗を厭わず、繰り返される横転や擦り傷にもめげない鈍感さを持っている。4年生の敏感期にこのような困難を与えるのは間違っていると私は考えた。

 

始まり始まり(24) 1992年度 園庭に雪の山。(これは突然始まって、あっという間に膨らんだ。)

 1993年2月、父の会会長八十島和寛氏が企画手配の一切をして下さって、園長のみの事前了解の許、ある日朝突然、園庭に新潟からダンプが雪を山盛り一杯運んでくれた。朝、登園した子供達も職員達もビックリ仰天の大騒ぎになった。

 1994年2月、父の会会長荻野敬次氏は、青少年相談員の組織を使って、木更津市のバスを借りて下さり、水上の民宿「みちのく」にくじら組を1泊で招待してくれた。渋々ついて行った園長は雪国が持つ可能性に気付き、翌年から社会館が一切を計画し2泊3日の卒園旅行とすることになった。大島に行きたいが海は怖いと迷っていた私は、荻野会長のお陰で、気持ちの迷いを吹っ切ることが出来た。

 水上の雪の中では、スキーなどはやらず、昼夜を問わず、ひたすら雪の森の中で遊ぶことが基本の構想として始めから確立されてきた。ある保育園は、社会館を真似て雪国に行き始めたが、スキーをやっているらしい。私達は、子供達がその生涯に二度と出来ない凄いことを(とは言っても中身は素朴なこと。昔の雪国の遊びでしかない。)して上げたいと拘っている。札幌で5年間の学生生活を送らせてもらって、バス定期を買ってスキー場に通った人間としての精一杯のサービスだ。いつでも誰でも出来ること、当たり前のことはさせない。もっと素敵なことをさせて上げる。勿論、雪中行軍などの大冒険ができるのは、社会館父の会より会長始め父達7・8名が、はるばると、水上まで後方支援に同行して下さるからだ。 

 2016年1月18日社会館23回目の雪国保育園。木更津駅8:15初の特急で出発。上越新幹線で上毛高原にて下車。今回は数日前まで雪がなかったのに、土曜日からの大雪で、駅から乗ったバスは真っ白の世界に入っていった。民宿みちのくは、ご主人もおじいさんも今はなく女将とお嬢さんとその孫の3人でのやりくり。近くの幸知小学校と保育園は生徒がなくて廃校、小学校校舎もついになくなってしまった。

 社会館雪国保育の専用ゲレンデは、利根川源流を渡った向こうの山の中。東京電力が設置してくれている一本橋を渡るのだが、その橋が更新工事中で、向こうの雪山に渡れない。というわけで今回は、23回目にして初めて、夜間の肝試しも、雪中行軍も打ち上げ花火も全く別の利根川の大河原でやることになった。もちろん約2メートルの雪の覆われて、まっしろ。雪なしの時の事前踏査なしのぶっつけ本番であったが、父の会のご支援もあって、無事終了。第2のゲレンデの可能性を発見できた23年目の雪国保育となった。

 が利根川源流の一本橋を渡って入ってゆく雪の森の魅力は圧倒的。来年からどうするか。それは次のお楽しみ。 

 

始まり始まり(25) 1994年度 お父さん先生本格化。

 くじら組のお父さん方に、1年に1回お休みを取ってクラスにはいることを提唱。お母さんはダメと始めから私は判断していた。授業参観も保育参観もウソっぽいと感じていた私は、1日保育に参加して頂けるなら、リピーターもあるかも知れないと見込んだ。今、年間3回くらい参加される父親もいる。はまるらしい。有り難いことだ。特に母子家庭のお子さん達に、父親達は歓迎されると私は受け止めている。

 

始まり始まり(26) 1998年度 森の保育が始まる。(数年思案した。)

 1999年3月4歳児クラスから「森の保育」を開始。詳細は別記。

 

始まり始まり(27) 2001年度 園庭大改造を発案。大きな山が出来たりします。

 園庭に2台のユンボを入れて、庭中の砂をかき集めたら大きな山になった。入園式後直近の日曜日、園長宮崎の思い付きで毎年のデザインが決められる。園庭に山を作れといったのは、斉藤公子先生。山の斜面の上り下りが子供達のバランスと太もも・体幹を鍛えると。私が見る所では、そのほか色々な効用がありそうだ。それらの1つは、子供達のサル性(高い所から下界を望んでいい気持ち)を満たしてくれること。

 10月の運動会までに山は崩されて平らになる。平らでなくても運動会は出来るが、構想力がない人には、凸凹園庭での運動会は、難しいだろう。冬、竹馬をやるには、平らの園庭がよいので、運動会で凸凹をなるべく減らす配慮はあって良い。夏の水遊びには山は十分魅力的な存在だし、秋の焚き火に山が邪魔ということはない。1年中変化のない園庭・校庭は、私にとっても当たり前のあり方であったが、2001年4月始めの子供達の爆発的な反応を見て、不変の園庭が子供達には「退屈な憎むべき存在だ」ったと私は思い至った。

 

始まり始まり(28) 2008年度 マザー牧場牛乳を子供達に与え始めた。

 平成17年厚生労働省が栄養基準表をひっくり返して以来、肉も牛乳も砂糖も、それ程摂取しなくて良い食品になった。少量で良ければ、高くても美味しくて健康的なものを人は摂取したいものだ。

 そして、日本の牛乳が世界でも珍しい高温殺菌(130度以上で2秒間殺菌)処理されていることを知ったのは、ショックだった。チーズが出来るのは、低温殺菌の牛乳だけだ。美味しいのも低温殺菌の牛乳(60度から80度ほどで20分殺菌)だった。牛乳アレルギーのお子さんでも低温殺菌牛乳は飲めるらしかった。マザー牧場が低温殺菌牛乳を社会館まで配達してくれると分かった。以来社会館の牛乳は低温殺菌牛乳になった。一晩コップにためておくと濃厚なクリームがビンの縁に出来ている。今までなかった本来の牛乳の姿は感動的だ。

 

始まり始まり(29) 2009年度 減農薬の請西米を使い始めた。

 2歳以下のお子さん達には、毎食胚芽米を出していた。2009年から、3歳以上児にも、玄米や7分搗き米(請西産の自家用米)を用意できるようになった。白米(陸軍)と玄米(海軍)の戦いの歴史を忘れて60年が過ぎた。青少年非行の原因の1つといわれる、「隠れた脚気」が蔓延している現代日本で、玄米食や胚芽米食等の見直しは急務だ。

 日本のパンの酷さ(フランスパンや黒パンはよい。日本のパンは、脂肪分と砂糖が入れられてお菓子そのものだ。)を含めて、社会館は、美味しい玄米食・味噌汁そして充分に噛むことの大切さを、これから皆様にお伝えしていかなければならない。「森・里山の保育」が万能薬なのではない。社会館保育はまだまだ未熟だ。良かった。もう私の役割は終わったと思っていた。

 

始まり始まり(30) 1980年頃 月刊絵本「子供の友」福音館を選んだ。

 私が社会館に戻った時、昭和30年頃と同じ月刊絵本が社会館では使われていた。月刊絵本「キンダーブック」「チャイルドブック」は厚生省保育指針にある6領域区分にしたがって、「自然・言語・絵画製作・社会・音楽・健康」の全ての項目を毎月網羅するように、そのテーマを選んでいた。私の55年前の記憶では、絵画制作以外は全く面白くなかった。

 福音館の「子供の友」は、あれもこれもではなく、毎月1つの物語を載せるだけだった。少なくとも子供達は一貫した興味を以て、最後まで読み通すことが出来て、飽きがなかった。注意は分散されず、関心が持続させられた。「キンダーブック」は1回読まれればそれまでだった。「子供の友」は、当たれば、生涯の友となった。年間12冊が作られて、当たりは平均3冊くらいらしいが、それは営業上のことで、個々の子供にあっては、当たりはずれは本人次第だった。私の印象では、はずれが3冊くらいか。

 私は園長になって数年で、社会館の月刊絵本を「子供の友」にした。君津郡市では、最初の採用であったらしい。千葉県庁在職中、保育所監査官として視察に伺った東京の西久保保育園。主任の園田とき先生のご推薦が出発点だった。先生は、「子供の友」として発刊された「3匹の子ぶた」(福音館)を示された。その絵画表現は、私の絵本観を一瞬にして打ち破ってしまった。しかもお話が、「復讐物語」であったことも驚きだった。「桃太郎」の絵本が30種類以上あって、最後に鬼が退治されない場合があることも教えて下さった。民話が持っている真実感が、子供達には残酷すぎるという判断が戦後されてきたらしかった。

 これは戦後アメリカ占領軍が、日本人による、アメリカに対する復讐や敵討ちを恐れて打ち出した占領政策の一貫だったことは後で知ることになる。「カチカチ山」が絵本として発刊されるのは、1980年代だった。保育園や学校で、喧嘩が禁止されてきたのも、アメリカの対日政策の影響かも知れない。私はアメリカ占領軍に対する恐怖を知らない世代に属するので、割に自由な発想が出来るのかも知れない。死を本当の実感を以て受け止め始める9歳以降。サンタや地獄や閻魔様を本当だと信じられる9歳以前。9歳の節が、残酷物語を全く違った体験にしているらしいことに気付くのは、随分後のことだったが、「桃太郎」をデフォルメし「カチカチ山」をパージする態度に私は、いかがわしさを感じ取った。福音館の編集方針を好ましく思った所以であった。

 

始まり始まり(31) 時間外保育で折り紙や空き箱工作

 これは依田あき子先生が始めて下さったものだ。時間外保育の子供達は2歳以下と3歳以上に分かれて保育されてきた。3歳以上を担当されていた依田先生は、いつしか折り紙を子供達に手ほどきし始めていた。年長児達が最後には30面体を折れるようになったのは、彼女のお陰であった。

 現在は高橋光子先生が、折り紙のみならず、空き箱や自然素材を使った、創作を子供達に促すようになって数年になる。夕方の時間外保育の子供達は段々減っていく。その心細さを忘れて子供達が、一心に何かに夢中になったまま、「お母さんのお迎え」になることを私は望んできた。子供に鞄を背負わせて父母の迎えを子供が待っている様にする終わり方は、私にとって切ないだけでなく、母達をも苦しめるだろうと私は考えた。「親が迎えにきたらすぐに帰れるから良い。」という論法は、保育者側の勝手な正当化論であり、私は取らなかった。

 夢中で遊んでいた子供が、迎えに現れた母に向かって飛びついていったまま帰っていくことは素晴らしいではないか。「後始末は誰がする?」担当保育者がすればよいことではないか。子供が「さようなら。」と手を振って帰りながら、「明日もまたここで遊びたいな」と思ってくれればそれで言うことはない。「良かった。良かった。」と思いながらウキウキと後片づけをする保育者が、社会館にはいる。

 

始まり始まり(32) 社会館関係の建物は、濡れ縁大好き

 ①防衛施設庁の補助金を頂いて、社会館の新園舎を設計している時、私は幅2メートルの濡れ縁を園舎の前面に敷き詰めて貰うことに成功した。そこは一面檜材の香りたなびく森の世界となった。子供達はそこに戯れ、そこで食事をし、そこでゴロゴロした。

 ②「ゆりかもめ」寺町分館にも濡れ縁を作った。濡れ縁は室内と外を繋ぐ中間地帯。室内にいても、外を拒否ぜず引きこもらない心持ちを人が持ち続ける促しとなるものだ。

 ③佐平館にも勿論2メートルの濡れ縁を作ってもらった。元々30㎝程の濡れ縁があったところを広くしたのだった。ここも作業所・ゆったり所・食事場所・物置とご使用法は、全くご自由だ。外に突き出た床の間のようなもので、その空間の存在自体が、人を安息させてくれる。

  ④「ゆりかもめ」東清分館にも、1間幅の濡れ縁が設置された。GLから30センチ程の高さに身を置くと、外がとても好もしい姿に見えるものだ。ここは幼子を連れた母達の一息の空間として人気だ。

  ⑤「森の家」には、渡りを広げると、幅1.2メートル程の濡れ縁が出来るようにして貰った。常設の濡れ縁を設置できない場所であったので、人がいる時だけ使える設計にした。ここも、昼食や作業や一息の空間として活用されている。

  ⑥「くじらクラブ」は、私が作って頂いた濡れ縁の中で最高の出来映えとなった。暑さ2.5㎝の杉材が幅2メートルで敷き詰められた、「くじら」の濡れ縁は、雨の日は勿論使えて、晴れの時にもとても見晴らしの良い快適空間となっている。

  ⑦「ポプラクラブ」第2には、昔の濡れ縁がそのまま保存されている。典型的な語り合いのご縁を結ぶ濡れ縁を人はそこに見ることが出来る。

  ⑧「ポプラクラブ」第1には、ちょっと高めの濡れ縁が作られた。これは外廊下を兼ねたもので、本来の濡れ縁の機能を果たすことは難しい。が、あるだけで子供の心を和ませる力は、明らかに持っている。 

 

始まり始まり(33) 忍者屋敷と迷路があちこち

  ①「ゆりかもめ」本館は、地域子育て支援センターであると同時に、子供達のための巨大な遊具として構想された。1階と2階と屋根裏が一体となって使えるようになっておりながら、連絡通路はよく分からない。通路の入り口と出口が忍者屋敷のように隠されており且つどこにつながっているかも予測が出来ない。

  ②「森の家」も地下室と1階と屋根裏が一体的に構想されておりながら、出入り口は解りづらい。入った迷路の終点の予測は難しく、4・5歳児にとっては、充分に忍者屋敷の雰囲気だ。

  ③「ポプラクラブ」第1も、雨の日を楽しく過ごさせるために私が考案した、迷路構造を秘めている。普段は開かれずまるで見えない屋根裏への通路が、雨の日だけは開かれることの痛快さは、特に男子にとっては堪えられない仕掛けであろう。

  ④「佐平館」にも忍者屋敷構造を仕組んで貰った。「森の家」ほどには徹底性に欠けるが、かやぶき屋根の裏側が丸見えの屋根裏部屋は、ゾクゾクするような別世界を子供達に提供してくれる。

  ⑤「くじらクラブ」にも大人の目が届きにくい屋根裏空間を作った。そこは実は、鏡で下から透いて見えるからくりを持つのだが、見えるようで見えない、見えないようで見える視線体験は、小学生には非常に安心且つ刺激的だ。

  ⑥「ゆりかもめ」東清分館には、間口4間・奥行き半間の大迷路が作られた。これは谷口工務店の実施設計によるもので、私の構想は、元々大まかそのものであった。谷口彰嗣社長は、うちに秘めたる子供心を大いに発揮して下さり、私の予想を大いに上回るデザイン、ルート設計で子供達を虜にして見せてくれた。迷路にはいることは、子供自身がその頭の中に迷路を組み立てることでもある。このような立体的な構想体験は、子供達の頭を大いに立体的なものにするだろう。

 

始まり始まり(34) 合気道が始まった

 「合気道」師範吉田充伸氏から、子供達が「合気道」を教えて頂くようになって、15年程になる。始まりは、お父さん先生として吉田氏が社会館年長くじら組に「合気道」の初歩を試みて下さったことだった。子供達の動き・姿勢が、吉田氏の予想を上回っていたうえに、子供達の反応も至極歓迎的なものであった。吉田師範が、「合気道」を教えるのに不足なしと判定され、子供達が「合気道」を教わることに積極的であったのだから、園長の決断は早かった。くじら組の段階で2・3回「体験学習」させて頂いたうえで、「土曜学校」でも毎月1回年間を通してご指導をお願いすることになる。

 子供は「土曜学校」では、「特別何かをしなくても良い。そこにいるだけでよい。」といいながら、私は子供達が、テレビの影響下に流され溺れていくことに危機感を持っていた。最初から「詩の時間」を設定していたのはその故だ。「合気道」。それは天啓そのものであった。吉田師範は、忙しいにも拘わらず、小学生になった社会館の子供達に引き続き「合気道」を体験させることに意義を見出して下さった。

 信州黒姫山の麓の開拓部落で、狩野誠氏が農民達のために「延命茶」を作り、その子供達のために「棒術」を教えられていたことを知って、「里山の自然体験学校:土曜学校」に「合気道」は相応しいと私は確信を持った。元々「合気道」は、北海道の開拓時代に北海道東北部の遠軽在住の柔道家が、女性でも出来る護身術として編み出されたものということも同じ頃に知った。

 黒姫山の「棒術」は、土曜学校の「合気道」になった。それは何よりも①大きな声を瞬間的に出すレッスンであり、②自分自身に気合いを入れるレッスンであり、③普段、人が出し切っていない「余力」を活かす鍛錬であった。もし「合気道」自体を深めたい人は、直接吉田師範の許に入門すればよい。余り本気でなくても良い。

 のんびりとした里山体験のための「土曜学校」に、「漢詩や合気道」が必要か、意見は分かれるだろう。が私は、子供が9歳になるまでに身につけるべき判断基準と共に、思春期を乗り越えるための精神的な支えが、併せて明確に伝えられるべきだと思うようになっていた。60年間に渉った、私の試行錯誤、彷徨と思案熟慮のあげくに見えたものを、子供達に伝えていこうと、私は決めた。彼等に「残酷無惨な東西冷戦」や「日本の実りなき学生運動」の無駄を繰り返させたくない。せめて「江戸時代・明治維新以降」の再評価から、良き筋と良き志を伝えておきたい。吉田充伸「合気道」師範の変わらぬご教導を切にお願いしたい。

 

始まり始まり(35) 2003年度「ゆりかもめ寺町分館」のオモチャは全て手作りで発足

 2003(平成15)年5月開館した「ゆりかもめ寺町分館」のオモチャ類の全てが「手作り」である。小糸町立中保育所職員として奉職され、小糸中保育所長で定年退職されたばかりであった鈴木和代先生が、ボランティアとして、その「手作りオモチャ」の殆どを、作って下さった。「手作り」が「ゆりかもめ」の流儀として、利用の親達に受け容れられていくキッカケを鈴木先生が作って下さったのだ。

 30年前、1972(昭和47)年4月、私は千葉県の出先機関である君津支庁社会福祉課社会係職員として保育所監査担当になった。4市の50の保育所を巡る中で伺った、君津市の小糸中保育所の主任保母が、30歳前の若き鈴木和代先生だった。当時、公立の保育所長は市長や町長が兼務するのが普通で、主任保育士が事実上の所長・園長であった。こちらは大学を出たばかりの24歳の若造で、よく偉そうに保育所監査などをやっていたものだと思うが、県庁内では、大した仕事とは思われていなかったのだろうと思う。が現場の保育所側の緊張感は相当なものがあって、監査終了、そして指摘事項もない時の保育所側の安堵感はよく分かった。鈴木先生も、若造の監査官に対し始めは緊張し、最後にはニコニコと応対し送り出して下さったものだった。

 その監査官が、木更津社会館保育園の園長になっていた。新しい子育て支援センター「ゆりかもめ寺町分館」を立ち上げるに当たって、退職の噂を聞いた鈴木先生に電話を掛けて、ご支援をお願いすることになるのが、30年後のことであった。実は、私の家内、宮崎ハルエが千葉大教育学部より、君津市教育長竹内金兵衛先生にスカウトされて、社会教育主事として赴任したのが、1970(昭和45)年4月に新設された君津市小糸公民館であった。ハルエは、公民館の新任職員として小糸中村の先輩鈴木先生にしばしばお世話になることになる。中保育所の責任者として、公民館の仕事に協力して頂くことが多かった先生のことを、ハルエは忘れていなかった。逆も真であって、それ故に鈴木元所長はわざわざ木更津まで、「ゆりかもめ」の立ち上げ支援にお運び下さったのだと私は承知した。

 小糸の人らしい穏やかな立ち居振る舞いは、「寺町分館」の雰囲気を安定させ、若い母親達の信頼を集める重要な柱となった。「ゆりかもめ」本館にある高級なオモチャ類を、「寺町分館」には置かない。母親達が自分で造れるオモチャのお手本を置く。私の想いを先生が、確実に実現させて下さった。世間が未だ丹精と創意工夫を当たり前としていた頃の人、鈴木先生は当たり前のように、どの家にもある不要な物品を手品のように素敵な玩具に変えて見せてくれた。「ゆりかもめ」の流儀の1つ「手作り」はここに発するのだ。子ども祭りを始めた時にも、若き担当者達をしっかりと後ろから支えてくれた先生のご支援ご指導を私は忘れない。

 

始まり始まり(36) 2012年度 大島の塩を使い始めた 

 「食材よりも調味料に金をかけよ」と言われて、醤油を佐貫の「宮醤油」から取り寄せ始めたのは、マザー牧場から低温殺菌・成分無調整の牛乳を取り寄せるようになった頃。ゆりかもめの母達が、「満月の夜の海の塩がおいしい」などといっているのが気になっていたところ、竹内栄養士が、お値段もまあまあだと大島の塩を推薦してきた。いずれ満月の夜の塩を使う時が来るかもしれないが、まず大島にしようと決めた。

 そして大島の塩が、①海水から作られ②海水が秘めるミネラルをバランスよく塩に保存する作り方がされていた事を知ったのは2014年の5月。専売公社が進めていたイオン交換膜による生成法では、99,9㌫が塩化ナトリウムで、微量のミネラルは殆ど排除されていたのです。塩化ナトリウムの純度が極めて高く、海水のミネラルバランスが失われている点では、メキシコやオーストラリアからの輸入天日塩も、伊豆大島の自然海塩には遠く及ばない、と知ってしまった以上は、満月の夜の塩はしばらくお預けとなりました。

 

始まり始まり(37) 2014年度 給食調理用の油を米ぬか油に変えた

 下関市立病院の永田医師が「アトピー患者10000人を直した。着眼点は患者達の食事がリノール酸過多であること。」と発表された。『油を断てばアトピーはここまで治る』三笠書房刊。要するに「保育園給食からサラダ油を排除せよ」ということ。しかし、代わりのエゴマ油/しそ油は高額すぎてとても使えない。これでは本園自慢の日本一のコロッケもハンバーグも作れない。当面揚げ物を(平均)毎週1回にしていたのを半減させて、凌いでいたら、『そのサラダ油が脳と身体を壊している』(ダイナミックセラーズ出版発刊)が出た。これで油ものの回数を元に戻せることになった。

 著者山嶋哲盛氏は、「サラダ油に代わって、米ぬか油がある」と教えていた。カナダやアメリカから来る遺伝子操作されているかも知れない大豆やトウモロコシ。インドネシアなどの熱帯雨林を潰して作られる椰子の実油。これらと違って、米ぬか油は、国産の米から出る糠を原料にしてやっていける。しかも米ぬか油のリノール酸は、そのよい働きだけを発揮してくれて、人体に悪さをしない。

 何でも一度の失敗で懲りてしまうひ弱な日本精神が、あのカネミ油脂の配管ミスを冷静に受け止められずにいた40年間が今終わろうとしている。というわけで、社会館は「米ぬか油」という日本伝統の揚げ物料理にに戻ることになった。サラダ油よ「さようなら」。

 2015年10月20日「たけしのエンターテイメント健康番組」で米ぬか油が取り上げられた。エゴマ油やオリーブオイルを脇に押しのけて、米ぬか油を称揚した歴史的な番組。東京医科大学の小田原雅人先生が、米ぬか油のガンマ・オリザノールが悪玉コレステロールを減らすのだと証言。たぶん米ぬか油についての番組が、これから連発されるはず。リノール酸とαリノレン酸の説明とは違う裏付けなど、一部曖昧さが残るが、基本的な方向付けは間違っていなそう。山﨑先生と、小田原先生のお考えを綺麗に整理して下さる情報が出たところで、この問題は最終決着する予定です。

 

2017.4.4 園長 宮﨑栄樹