社会館保育をデザインした宮崎の思想的系譜・歴史的な体験

                                                        

 1978(昭和53)年4月以来、木更津社会館保育園園長(最初の1年間は、副園長)として私は、いつも保育園の子供達が発する光を気にしてきた。その関心は只1つ。「この子は、今この一瞬を、心の底から享け入れ楽しんでいるか?」小児科医と同じく、私の診断の手かがりも「子供達の表情と身のこなし」であった。「小雀たちのように、その心・体は、飛び跳ね、弾んでいるだろうか?」子供達が、出会い頭に思わず発する「園長!」という声の勢いに、その子の私・担任・社会館保育園全体への、信頼・満足を読み取ろうとしてきた。

 そして、私が必死に考え迷いながら子供達に提案してきた、あれこれの企画の思想的歴史的な背景をここにまとめた。 

目    次

1 グノーシス・華厳経・ゲーデル・岡清・城丸章夫

2 丸山政男・本居宣長・荻生祖来および平安仏教

3 ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクス・レーニン・スターリン

4 佐伯胖(ゆたか)「アメリカコンピテンス学派」

5 板倉聖宣「仮説実験授業」

6 民主主義は多数決のことではない。

7 ディベートの衝撃的な真理観

8 戦後の育児、その理想型の行き詰まりと転換

ァ 平等論

ィ ストレス無用論・我慢忍耐不要論

ゥ 自己犠牲無用論・自己利益最大化論

エ 子供部屋が子供の自立を促す論

オ 「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ」論

カ 「ご飯を食べると馬鹿になる」論:慶応大学某教授

キ 子供達は、誰からも束縛されるべきではない論

9 上記以外に重大な影響を受けた方々

 斉藤喜博・斉藤公子・丸山亜季・高垣順一郎・シュタイナー・遠山啓・森岡正博

 

 

1 グノーシス・華厳経・ゲーデル・岡清・城丸章夫

 木更津社会館保育園の保育をデザインする時に、通奏低音のようにして私の意識を支えてきたアイデアがある。矛盾がないことではなく、人が困ってしまうような「矛盾・事件こそが、新しい地平に人を導いてくれる。」とする「矛盾論」。キリスト教神秘主義者グノーシスは「対立物は一致する。」と説いた。華厳経には「一即多、多即一」と記されている。ゲーデルという数学者は「完全に無矛盾の論理構成は不可能である」という証明をしてしまった。日本の数学者岡清は昭和天皇の御前で「数学的な論理性・厳密性を曖昧な情緒と非論理的な直感が支える。」という名言を残した。

 子供達の対立混乱を恐れない。子供達の対立緊張の中から彼等が、子供達同志の相互理解に到る体験を社会館は大切にする。一時的な混乱の中から、秩序と調和を産み出す社会館の子供集団のイメージは、私が社会館保育園園長になる10年程前まだ北海道大学文学部哲学科の学生であった頃にできはじめたと言える。それは園長就任後、千葉大学教育学部体育科の教授、城丸章夫氏のご講演を聴いて揺るぎないものとなった。城丸氏は言われた。

 「体育の授業で笛を使うな。クラス中の生徒を一斉に、網をかけるように一網打尽に動かすな。教員の指示は、たとえ小声でも生徒集団に浸透していく、その様な集団を造れ。教員の指示が、さざ波のように、建物の裏側にいる仲間にまで伝えられていくような子供集団を造れ。それぞれの子たちが独自であり、それらの判断行動に微妙な時差・ズレがあったとしても、個々の精神の中で普遍意志に俊敏に反応できる子供達を私は求める。体育はファシズム教育の場ではない。体育をとおして民主主義国日本の市民を養成することが可能なのだ。」会場は千葉大の学内だったように記憶する。体育の専門家の言葉としてあまりに意外であった。一度だけの受講であったが、私の教育観を、具体的に明確に決定づけた一時であった。

 

2 丸山政男・本居宣長・荻生祖来および平安仏教

 丸山政男・本居宣長・荻生祖来が強烈明白に提示した「特殊性と普遍性・個別性と一般性・内在性と外在性・自発性と外発性・伝統保守と伝統打破」等の対立する考え方、行動様式を躍動的に生き抜く強靱さを良しとすることは、上記の立場にいれば、たやすいことだった。それは後に私が、平安仏教の慈悲と寛容さを併せて納得すると共に、私の思想の基盤を形作って行った。なかでも、各時代の内在性・自発性と古来の伝統文化が共に秘める普遍的な価値相互の緊張関係を私は常に意識してきた。  

 高度経済成長を経て、私のような一介の県庁職員(6年程千葉県に奉職。)も含めて、日本人達が気楽に海外旅行に行けるようになった。憧れの国々を旅しながら、その地に住み着いてしまう人たちも出始めた。しかし所詮は異邦人。食事はもちろん対人折衝の物腰、自己主張の流儀もまるで違う。日本人が、「自国の素晴らしさよりも外国の魅力を語る」姿を怪訝そうに眺める外国人達の存在に気付いた人たちは、そそくさと帰国の途についた。自国の歴史、先人達の精進努力を思い出しながら、「フランス人・アメリカ人に対して自尊心を失っている私」「外国から尊敬され一目置かれることがない日本人、謙虚で卑屈で遠慮がちの日本人」を私は見出すのであった。

 29才の私は3度目のヨーロッパ1人旅にでた。フランクフルトに降りて、鉄道でドイツからスイスへ、そしてイタリーへ国境を越えると、すぐにそれぞれの国の異なる国旗が翩翻と掲揚されているのが目に映った。「もうここはスイスではない、イタリーだ。」と必死に訴える人々がいた。ドイツがやったことをイギリスもフランスも真似ることはなく、フランスがやることをドイツは決して追随しない。もし真似たら、その瞬間に自分たちは隣国に屈服したことになる。例えば「私はイギリス人であって、フランス人ではない。」というような自己認識を懸命に守り固めようとする強い意志が、全ヨーロッパの国々に横溢している。人が「自己同一性を保つ」ということの大変さを我が身に染みて知らされたヨーロッパ縦断(イタリー・フロレンツ~ドイツ・ハノーファー)鉄道1人旅であった。

 「日本国に国旗などなくてもよい。」という方々がいる。彼等は、飛行機ではなく、鉄道やバスなどの地上ルートを使ってヨーロッパ諸国の国境を越えてみるとよい。「1つでも外国語を使えることが、自国語を真に理解するのに必要だ。」というゲーテの言葉を、自己対象化を媒介した自己同一性を獲得していない人たちは、理解できないかも知れない。

 社会館保育園が内発的な伝統文化(食事・生活様式・人間付き合い・日本語・町中の散歩・里山での生活遊び等)を大切にする理由は、子供達がいつの日にか外国の地に立った時、日本人としての自己同一性感覚を保証して上げたいがためである。ローカルなしのグローバル・ナショナル抜きのインターナショナル・多様性なしの統一性・個別性抜きの全体性・地方なしの統一国家は、砂漠のように、空しく単調で恐ろしい。日本国千葉県の木更津で育ったことを幸せに思い、誇りに思える日本人達が社会館で育ってくれることを私は切に祈リ始めていた。

 

3 ヘーゲル・フォイエルバッハ・マルクス・レーニン・スターリン

 ヘーゲル・フォイエルバッハ(人類の歴史は、初志が成熟して反動・対立を産み、緊張硬直状態に到り更に、初めには予想もしなかった第三の境域に達するとする。グノーシスの静的な考え方を、流動する時系列の上に置くことによって、矛盾対立を歴史を作り上げる機関車に見立てた。)を基本の哲学とし、マルクス・レーニン・スターリンと進む共産主義運動の発展、充実、行き詰まり、空洞化と崩壊の悲劇に気付いた私は、人類学の成果に基づく現象学・構造主義へと考え方の軸足を移していった。

 「空想から科学へ」と、その認識レベルを上げてきたはずの共産主義者達は、人間の計画能力の未熟さ・マルクス主義思想の限界に思い至ることなく、共産党の絶対権力に胡座をかき、自分たちが人民の反感を買っていることに気付かなかった。ソビエト共産党は、人々が自ら考え、生きようとする意欲をそぎ、自分たちはもとより人民のモラルまでも破滅させた。具体的には、宗教をアヘンと断定してこれを全否定し、遺伝子の存在を拒否し、集積回路の発明を理解できず、抽象画・幼児画を「ロバの尻尾が描いたようだ。」とあざ笑って、写実画以外の全ての絵画を否定した。

 この影響は、40年程前、私が社会館に赴任した頃の日本の保育界にも残されていた。千葉市の泉幼稚園がその運動のセンターで、モスクワから1人の女性教諭が招かれていた。彼女は、3歳児から「色も形も、見えた通りに描きましょう。」と誘導して、保育界でよく知られていた幼児特有の描き方を否定した。「見えた通り」とは、「大人の目に見えた通り」であった。9歳にならなければ獲得されない、客観的な認識能力の発揮を、モスクワの指導を受けた保母達は3~5歳児にも求めた。子供達は、指導されれば、遠近感のあるバランスが取れた写実的な絵を描くのだった。保母達は、写真のようだと言って、「ありのままに」色づけされ形作られた子供達の絵画を誉め、殴り描きや頭足人や上下左右が自由自在の画を見下した。お母さんの顔の色は、肌色一色ではもちろんなく、印象派の絵画のようであることが推奨された。時に虫眼鏡を使って葉っぱの色を決定させていた。5歳の子供達の認識能力の発展段階が、ここでは全く認識されていなかった。それは正にソビエト共産党の未熟な人間観に基づく暴挙であった。数年して、日教組系列の教育月刊誌が、「幼児に対する写実画指導は、子供の認識の発展段階を無視している点で、人権蹂躙の教育法である。」と批判して以降、この指導法は急速に衰退した。一時この指導法を受け容れた私は、3年程で考えを改め、この指導法を社会館から排除していく一方で「9歳の節」について少しずつ資料を集めていくことになる。

 構造主義・現象学との出会いは、マルクス・レーニン等の素朴実在論を私の頭の中から吹っ飛ばしてしまった。ある物そのものではなく、そのものの構造に目を向け、ある物その「物自体」ではなく、その物がどう見えるかを重視する現象学の価値論は、マルクスの「労働価値説」を私の頭の中から消去してしまった。

 人類学者レビストロース達の報告によると、南洋の島々で崇拝畏敬されている神様は、3年を周期として1000キロも大平洋を横断して次の担当の島に送られていくという。それはそれは壮麗な儀式が行われる神様の大旅行。その神様の実態は、一片の紙切れ。人はその一片の紙切れを命をかけて守り送り届けようとする。マルクス主義哲学が全く説明できなかった新しい「価値論」が、現象学の一環として産み出されていた。実体や存在を問うことなく、人の目に見える関係や現象を重視するという態度は、マルクス主義哲学に不満を感じていた私を揺さぶった。

 子供達を大人と比べれば、1歳児も5歳児も全く未熟極まりない未完成品に見える。子供達の指導教育は、大人という目標を目指して日々自己否定を重ねること。ほぼ15歳になるまでは、ひたすら精進鍛錬の日々。しかし現象学の見地からすれば、0歳児も3歳児もその日々を自己肯定しつつ生きるべきだとなる。子供達は、その子供性を充分に生ききることによって、子供性を消化しつつ青年期を経て大人になる。

 しかし、幼児期の遊び等は無駄。遊びなど大きくなってからやればよいと考える人たちが現代日本にもいる。彼等は、2歳児に字を教え、数字を教える。4歳児に1次方程式を解かせ、漢字を覚えさせる。ひたすらごっこ遊びに没頭するべき3歳児に、机について小学生並みの教育を受けさせる。ひたすら里山を徘徊して、自然と戯れるべき時に、部屋に籠もって個人的な才能開発に励ませる。自発的内発的に幼児達が没入する、集団での泥水遊び等を全くせずに、思春期を迎え成人になる子供達。彼等はしかし、子供時代にやっておかなかった、幼稚な振る舞いや体験を大人になってから実行したがり、周りのひんしゅくを買う。

 1歳児には1歳児として、内から自然に溢れ出てくる子供の欲求がある。それを無視して、プロセス抜きでゴール・結果を与えようとする短慮。子供達が喜んでいなくとも、平然と上からの指示を子供に押しつける非道。自ら感じることなく、自ら欲することなく、自ら決断することなく、ひたすら「木偶の坊」ロボットを演じさせられる幼子達。大人という完成品を人のあるべき姿とし、幼児期という未然状態を拒否する大人達は、人類の進化過程を認めず、いきなり神によって創造されたアダム達を正しいとする人々と同じ。

 私は、それが紙切れ1枚・カブトムシの角1本だとしても、子供がそれを大切にしているのなら、その子供達の思いを尊重してみる方が面白いと思った。原始時代の人類の絵に似る幼児画を「間違っている。」と評価して「写真のように正しい絵画」を子供達に教えることから離れた。

 

4 佐伯胖(ゆたか)「アメリカコンピテンス学派

 40年前の心理学者達の常識は、「刺激・報酬が人の行動欲求を促進する」と教えていた。この常識は膨大な実験結果によって証明されていた。30年前、東京大学教育学部助教授として招聘されようとしていた佐伯胖氏は、「報酬が人の欲求を促進しない場合がある」「報酬の逆効果」理論を紹介し始めていた。

 1960年代、アメリカ大統領ジョンソン氏は、肌の色による人種差別をなくすために「ヘッドスタート」計画を大々的に実施して失敗していた。「アメリカで黒人達が幸せになれないのは、小学校1年生になるまでの養育に白人と違う点があるからだ。だから1年生の時、白黒を問わず同じ状態でスタートを切らせてあげたい。」ジョンソン大統領はその様に願い膨大な予算を計上したが、期待は見事に裏切られてしまう。なぜか?そこから心理学者達が立てた仮説は、「いくら周りが勉強を教えようとしても、学習を支える心情・意欲・態度が出来ていなければ成果にはつながらない。」というものであった。

 佐伯先生は、この「アメリカコンピテンス学派」の研究成果を紹介しつつ「やる気のない子」「影が薄い子」「自分の人生を物語に出来ない子」「無責任な子」「何でも人の責にする子」「間違えるということ」「分かるということ」「自信を持つということ」など、今までの日本の教育心理学が全く説明できなかった学校生徒の課題を、明晰に説明して下さった。全ての彼の論文が「目からウロコが落ちる」内容であった。

 何よりも、子供達の「やる気」が全ての出発点であること。手取り足取りは、人間教育の基本ではないこと。「自己原因性感覚」一杯の子供達、自己感情を明確に持ち、仲間達の感情との共鳴・ズレ・対立を常に前向きに生きられる子供達、世界を信頼し恐れることなく立つ。佐伯先生の教えは、木更津社会館保育園の根本の教育哲学だと言ってよい、と私は思う。

 

5 板倉聖宣「仮説実験授業」

 板倉聖宣氏の「仮説実験授業」を知らされたのは、20歳の頃、北大教養部の学生として北大理学部教授堀内寿朗先生のご講演を聞いた時だった。先生は、国土社刊「未来の科学教育」を挙げて「是非読むように」と仰った。それは衝撃的な書物であった。それまで、戦後の「相当未熟な民主主義教育」を受けていた私にとって、「仮説を立ててから実験をする」という発想自体がショックであった。それまで、人は白紙のままで先人の研究実験の成果を先ず学び、先例をなぞるように実験をした結果を見てから、もう一度自分で考えるのだと私は思っていた。ところが何と板倉先生は、小学校の3年生でも6年生でも、「先ずそれまでの個人的な経験を元にして、仮説を持て。」というのだ。「未熟な人間が、お粗末な経験と思考力で仮説を立てるよりも、先ず実験をしてみる方がどれ程時間の無駄がないだろう。」と私は思っていた。しかし先生は、「先入観なし、予測もなし、全く白紙の心で実験に臨もうとする従来の日本の学校のやり方は時代遅れだ。」と言っておられたのだ。

 事前に仮説を立てるだけでなく、何人かでその仮説を立てた理由を説明しあって、意見の違う人が自分の考え方に同意してくれるように説得せよとも、板倉先生は言うのだった。説得しあい説明していく内に、自己の考え方が更に磨かれ、またはその間違いに気付くことを彼は期待していた。従来の考え方からすれば、こんな議論そのものが無意味であって、すぐに実験をしてしまえば「ドンピシャリ答えが分かる。理屈など要らない。」というものだ。しかし先生は、「分かる」ということの中身を私の学校常識とは違う意味に解しておられた。「分かる」とは、実感を以て、心の底から「ああそうか!」と納得すること。「そうかも知れない。」ではなく、様々な可能性を事前に論理的に自分の言葉で想定した上で実験。結果として、それら他の答えが全て間違っていると分かった上で、残る一つが正しいと合点すること。

 そもそも仮説なしで実験が不可能であることを、学校は私に教えてこなかった。予断なき学習・予測なしの実験等ありえないことを私は気付かなかった。日本の学校がすでに外国人によって実験検証済みの実験結果を追試しているだけであったことに私は気付かなかった。その実験がその実験目的が世界で初めてであったとしたら、実験結果を予測し実験経過を仮定せずに、実験装置の準備も実験素材の設定も出来やしないではないか。その結果予想も経過の仮定も議論を通してこそ熟していくものではないか。「何となく、直感的にそう思った」ことに、人は後から理屈を付けるのではないか。「理屈を付けるために」仲間に助けられる討論会が有益なことは当然のことではないか。

 

6 「民主主義は多数決のことではない。」と知った衝撃2

 (1)「仮説実験授業」が城丸先生の体育の授業と同じように、民主主義教育の一環であったことは、私に大変な衝撃であった。「民主主義とは多数決のことだ。」と私は小中学校教員達から教わっていた。「多数決で人びとは正解を決定してよいのだ。」と。「仮説実験授業」は実験前の討論のあと必ず、多数決を採ってから実験をした。その際、必ず少数意見もはっきりとさせておくのが、この手法の特徴であった。そして驚くべきことには、実験結果は、「多数決が常に正しいとは限らない」ことを証明してしまうのだ。

 つまり、国会等における多数決とは、「総意を、便宜的に決定しているとしても、常に正しいことを決めているのではない」ことを「仮説実験授業」は生徒達にはっきりと教えてしまうのだった。40名の生徒中ほんの3名しか同意しなかった答えが、実験の結果正しいとされることがあるのが、科学実験である。多数派である残る37名の意見が、間違っていたことが分かった時の生徒達のショックは大変なものがある。たとえ3名でも正しいことは正しいと「仮説実験授業」は教えてくれる。それは「それでも地球は動く。」と呟いたガリレオガリレイの心中を追体験することでもあった。「科学的な真実は、コンセンサスでは決まらない」(クロード・アレグレ)のだ。

 (2)私が受けた戦後民主主義教育が孕んでいた、もう1つの欠陥を知らされたのは、木更津市保育協議会が主催して「人形劇の全て」を学習しようとした時であった。その指導者として東京から招かれた方(もはやそのお名前も記憶しておりません。済みません。)が、人形劇講座の始めに言われた一言が、私の頭を貫通した。「先ず始めに、誰か1人を選んで下さい。その方の役割は、シナリオや音楽や人形の雰囲気などを決める時の最終決定をすることです。映画の監督や音楽会の指揮者は1人でしょう。小説は多数決で作られていますか?1人の作家が作ります。人形劇にも監督に当たる役割が必要です。それは独裁的でなければならない立場です。」

 全ての決定は、常に「民主的に」多数決でやるとだけ、小中学校で学習してきた私は、独裁者の存在が許されるどころか必要である場合があることを知らされて、驚くばかりであった。その後、ある雑誌の編集長が、編集会議を「民主的に」開催して、結局クビになったことも知った。彼は、編集会議が次号の編集方針を巡って紛糾するたびに、多数決で決定を繰り返し、自ら判断することがなかったらしい。雑誌の売り上げは激減して、自分の首を絞めてしまったのだ。

 雑誌の編集長の役割は、小学校の学級会の司会者ではなかったのだ。会議が紛糾したら、多数決に逃げ込むのではない。参加者の意見を充分に聞き取った上で、編集長自ら最終方針を決断すること。最後の孤独な決断を出来る人が編集長となるのであった。

 保育園の保育は、芸術・雑誌・オーケストラと同じ、と私は考えた。「孤独な独裁者でしかありえない、オーケストラの指揮者と全く同じ」保育園園長の役割の厳しさ、そして楽しさを思い知らされた人形劇講座であった。

 

7 ディベートの衝撃的な真理観

 ディベートは更に、現在も変わらないヨーロッパの人びとの真理観を私に教えてくれた。それは、「真理は必ずしも1つではなく、客観的に存在するのでもない。真理はその場の議論で決められていく。」というこれまた衝撃的なものであった。名著「古事記の世界」を著した国文学者西郷信綱氏は同書の序言で「真理は、ドンピシャリ只1つ。」と断言されていた。素朴実在論に立つ多くの日本人達にとっても「只1つ」論はなじみやすい考えであった。しかしヨーロッパの知恵者は違った。

 14世紀のヨーロッパの大学で始められたキリスト教神学の1部門であった弁神論は、ディベートという討論法を採用していた。それは、1つの主張には必ず反論が可能である、とする。例えば昔ローマ法王庁は「地球は平らだ。」と主張していた。そこで人は「地球は平らか丸いか。」を議題にして討論をした。私は先ず「地球は平らである。」と相手に認めさせなければならない。ついで私は「地球は丸い。」と主張して相手を再び納得させてしまわなければならない。そこで求められているのは、「何が正解か、ではなく、如何なる立場・主張であれ、自己の考えを相手に納得させてしまう論証の能力」であった。キリスト教関係者は、このようにして「神の存在を証明」する立証能力を磨いてきたのだ。自分が依って立つ立場を対象化し、いわば論敵の立場に立って自己の理解をチェックするレッスンが、どれ程人びとの思考を深めたかは予想に難くない。権力の暴力によるだけででなく、対等の論戦の場で相手を説得することをキリスト教関係者は追求していた。これは大した民主主義的な態度ではないか。対等なもの同士による論理と論理の対決で問題に決着を付けようとする思想は、言葉を信頼する人びとによって初めて可能であり、そこに言葉による契約が神との間でも人との間でも成り立つのであった。契約も含めて全ては「仮説」なのだ。「真理」ではないのだ。どこかに「真理」が潜んでいて、我々はそれを掘り起こすのではない。私たちの言葉・思考が「仮説」を産み出し支えていくのだ。世の中の「真理」は常に「仮説」なのだ。

 西洋医学も東洋医学も有効である。が西洋医学が東洋医学にいささか優越しているのは、自己の認識が永遠に仮説であり永遠に改善されていくことを明確に認めているからである。西洋医学の論理は常に開かれており、如何なる批判も無視しない。自己の絶対性を主張せず、新しい知見に基づいて、大胆に治療法を変更する。人びとの命に触る医師達のこの謙虚さは、戦後民主主義教育の基本そのものである。このような西洋医学の真理観こそは、ヨーロッパの伝統的な真理観であった。

 

 「満場一致は自動的に否決」という101人会議の人間観

 各国の共産党大会は独裁政治の方針決定に当たって、満場一致を原則としてきた。反対者は、時にその後、自分自身の粛正、死を覚悟しなければならなかった。異分子がいない強固な全員一致の意思統一は、あらゆる国の共産党の理想型だ。これは、共産主義国ではない日本にあっても農漁村を原点に、生活、政治上の全体意志を決定する時に期待されてきた理想的な集団運営上の常道であった。

 しかし、日本の学校は、大政翼賛会が独裁した戦中の政治体制の大失態を反省して、独裁体制拒否、民主主義体制歓迎の姿勢をこの65年間維持してきた。何かを決めるに当たって、多様な意見が提案されること、それらの意見の長短が公開の場で討議されること、その最終決定は多数決によること。学校生徒であった、私はこのように教えられ、新日本建設のためには、多数決で物事を決めることが最も適切な市民の常識だと信じてきた。

 ここには、「少数意見がある方がよい」という条件は全く付いていなかった。共産党大会の満場一致の姿にただならぬ気配を感じ取ってはいても、「全員が一致して賛成」という姿に、私は何らの違和感もなかった。自分たちの学校でも、部落の集会でも「拍手で賛成の意思を表して貰って、全員賛成、原案可決!」というやり方は、今日の日本にも通用する当たり前の態度であった。

 この態度・頭を打ち砕いたのは、ユダヤの101人会議であった。「不完全な人間達が集まって、もしも全員が賛成するような進路・方針があったとすれば、それは明白に不完全に違いないので、自動的に不完全・不適切・不可と判定される。」「満場一致は自動的に否決」というのであった。ここでは1人でも反対があって、多数決されたことなら良しとされていたのだ。1人の反対が、多数派の考えの正当性を保証していたのだ。

 1941年12月8日、日本海軍による真珠湾攻撃はアメリカ国民の8割を占めていた戦争反対派を一気に賛成派に変えた。大統領の「だまし討ち演説」を受けた議会は対日開戦を熱烈に承認。そして、驚くべし。その劇的な議決に1人の反対票があったと聞く。ジャネット・ランキン:女性の戦争反対論者。国を挙げての怒り・興奮の中にあっても、アメリカ人達は冷静に、ユダヤの哲学を1人の女性が実践していると受け止め、唯一の反対行動を受け容れていた。ここには、日本人が考えもしなかった、少数意見に対する肯定的な受け止め方があった。

 ① 少数意見は、ない方がよいのではなく、ある方がよい。

 ② 人々の意見は一つであり一様であるよりも、多様多彩であるのがよい。

 ③ 「それらの多様な意見から1つの意見を選ぶには、即指導的な人が独裁的に決める方法と参加者による多数決による方法がある。どちらも議論なしで結論を得ることが可能だ。その会議に出席する時に、参加者の考えは決まっているのだから。」この考え方は、「真理は仮説。常に検討され検証されていく。固定しない。」というヨーロッパの真理観とは反対のものだ。

 ④ 「多数決に到る途中で、参加者達は、参加した時の自己の考えを対象化し自ら検討する」道を通るのがディベートのやり方だ。自らの考えに対する反論を、自ら行い、徹底的にその欠点を追求するというプロセスを通過して後に、「自分の考えがどちらであったのか分からなくなった。」とディベート参加者が告白することがある。人の考えが概して根拠薄弱のまま固定されていることを私は、20年に及んだ千葉県保育専門学院の哲学の授業を通して気付かせて貰っていた。人の考えは冷静な議論を通じて深められ、修正されていく。

 ⑤ にもかかわらず意見は割れる。それが「人々が決定する」ということの中身であり、多様な生き方が認められている日本の、自然の姿だからだ。

 ⑥ 人は自己の意見を1つにまとめて後にも迷いが残るものだ。自己の心中も多数決をしており、全体決議で表面に現れた少数意見は、参加者1人1人の心の中の迷いの地図そのものなのだ。

 ⑦ 時代が流れ変化していく中で、「全員が賛成した時、もはやその決定は時代遅れ」という悲劇が、その案件が重要であればある程起きる。

 ⑧ その意味で、少数意見が人々の未来を先取りしていることがある。

 ⑨ というわけで、多数決という決定方法が、有効な場合と、危険な場合があることを私達は知っているほうが身のためだと私は仮定している。

9 戦後の理想像の行き詰まり

 私達が戦後、学校等で学習させられた、様々な理想型が急速に崩れていったのがこの25年間であった。生活が豊かになり、生活の水準が急速に上がるのと併行して、家庭内暴力、校内暴力、自己中心、引きこもり等の問題が膨らみだした。同時に、責任を以て決断するリーダーの不在がはっきりと問題にされ始めたのは、元号が平成になって「トップは責任をとってよい」ことになってからだ。何かが起きた時に「誰が責任を負ってくれるのですか?私は責任を負いたくありませんよ。」と学校等団体のトップが平然と言って来たのが戦後の65年間であった。

 我慢するのは馬鹿。挨拶も礼儀作法も戦前の遺物。食前に「頂きます」食後に「ごちそうさま」なんて言うのはおかしい。黙って食べるのがアメリカ式だ。玄関で履き物をそろえるのも全く要らぬ作法。「自分が損することはどのようなことでも断固として断れ。自己犠牲とは、軍国日本の自己欺瞞でしかなかった。」と学校の教員達は子供達に語った。

 「自分は大東亜戦争・太平洋戦争の敗戦の責任をとらなくてはいけない。」と承知しておられた昭和天皇が、責任をとることをアメリカによって禁じられていた間、日本人達は、トップが責任をとることを避ける様にしてきた。その禁制は昭和が終わって、25年前に解除された。やっと喉の骨が取れた。

 が、その時、「命よりも名誉・自尊心を重んじた」武士の精神は、「自尊心・名誉を捨てても命を大事」とする町人の心に取って代わられていた。この逆転は、まさに戦勝国アメリカが目指した日本人改造計画の成功の1つの証であった。国のリーダー達、エリート達が300万人の犠牲者達の死を、「犬死に」と貶(おとし)め「命あっての物種」などと呟くようでは、もはや日本・日本人達が世界で尊敬されることはない。

 「もはや日本人達は、世界から尊敬などされなくてもよい。ただアメリカ国民・中国民衆・ソ連邦リーダー達のお情けによって、1日1日生かして貰えさえすればよい。」というのがロンドン大学教授森嶋通夫先生の教えであった。「もしソ連軍が、北海道に侵攻してきたら、赤旗と白旗を揚げて、歓迎しよう。」と。

 が、フランスの詩人・外交官であったポール・クローデルによって「世界で唯一残されるべき民族があるとすれば、それは日本民族だ。」と1943年(昭和18年)に言い残された日本人達は、「隷従」の境涯にいつまでも甘んずることはない。渡辺京二著「逝きし世の面影」2005年9月刊に記された江戸・明治の素晴らしい日本人達は、津波に襲われた東北地方では、未だ消滅していない。「風立ちぬ。いざ、生きめやも。」と宮崎駿は「東北」に同調共鳴した。この人の直感的な世界理解を私は信じたい。

 

 ァ 平等論

 「人々は神の前に皆平等だ。」と言われて、戦後の日本人は、「神の前に」を外し「人は皆平等だ。」と思いこんだ。そこには神に対する恐れも、恐れに由来する緊張も、平等自体を常に問題にし検討するという強迫観念もなかった。それはぐずぐずだらだらの平等論と言ってよかった。それは一切の上下関係を無視して善いとするもので、弱い者も強い者も平等であるとする、非常に乱暴で無慈悲な振る舞いを日本人に蔓延させていった。

 無知な者が自己の無知を恥じず、強い者が自己の強さを平然と行使して恥じず、我が親子はお友達だと思いこむ父母が現れた。親子が友達のように呼び合う例が出始め、親達が子供達を指導しなくなった。指導するための、親になるための勉強もしなくなった。30才になって親になりながら子供のままで平気。子供達が子供達を育てる風景が珍しくなくなった。その子供達は、正に「夜郎自大」で生意気そのもの、実に態度が大きい。状況判断も不十分、何かがあれば甘えて自己処理をしない。全てが子供のままで、振る舞いだけは生意気なアンバランス。本人は気付かないおかしさ。我慢なんて勿論しない。礼儀なんて親が知らない。子供も知らない。状況判断がどうもおかしい。やはり自己中心。実に見事な程に自己本位。それは厚顔無恥そのものだが本人は、ニコニコと恥知らず。

 

 ィ ノーストレス論・我慢忍耐不要論

 我慢なんかしてはいけない。我慢・忍耐は封建体制の遺物。子供達にストレスを与えないように気を付けよう。ストレスは子供達の健全な成長を妨げる。子供達をのびのびと育てるために、子供に「ダメ!」と決して言わないように気を付けよう。お茶の水女子大学某主任教授が先導となって宣伝してきた戦後の育児論であった。

 ある中学2年生が、家の二階に通じる階段をエスカレーターにしてくれと母に頼んだ時。生まれて初めて「それは出来ない。」と母に言われて、家庭内暴力を始めた。このニュースが世間に広まってから、子供には程々のストレス体験があった方がよいと言われ始めた。

 

 ゥ 自己犠牲無用論・自己利益最大化論

 「思想?ウソだ。主義?ウソだ。理想?ウソだ。秩序?ウソだ。誠実?真理?みんなウソだ。」という坂口安吾の言葉を受け容れて、「天皇陛下のために」「故郷のため、父母・恋人のために」戦死した人たちの犠牲を「犬死に」として貶めた私達は、自己の利益にならないことは、舌を出すことさえもすべきではないと小中学校で教えられた。それは津市でのボランティア裁判を経て、人による人のための善意をさえも否定する風潮となって、「世も末」となっていった。

 この弾み車が逆転を始めるキッカケは、カンボジア国が国家再建のための国政選挙を国連監視の許で実施しようとしていた時。1993年4月8日、1人のボランティアとして監視団に参加していた、中田厚仁氏がゲリラに殺害されたことであった。その犠牲を中田氏の父親が是認して、国連や日本政府を全く批判しようとしなかった。中田氏は息子の死に怖じけることなく、慌てふためくこともなく、自己の息子が「カンボジアの再建のために犠牲になったことを光栄である。」と総括した。

 日本のマスコミは、この父親の毅然とした態度に毒気をぬかれて、日本外務省や国連を非難する記事を遂に一行も書くことなく終えてしまった。数十年来、私にとって、いかなる事象が起きようとも、マスコミがどのように反応するかは、常に予想通りであった。中田氏のゲリラ殺害事件も、数秒にしてその記事内容は、予想できた。その予想がことごとく徹底的に外れたのが、中田氏の犠牲であった。日本のマスコミが、殺害犯人であるゲリラも含めて誰を非難して格好を付けるか、私は注目し続けた。自己犠牲を奨励できない日本のマスコミは、態度を保留した。

 この方向性が、「場合によっては自己犠牲もあり」となってマスコミに定着するのは、1995年1月17日阪神淡路大震災の惨劇を全国民がテレビで目の当たりにしてからだ。あの時は、茶髪の若者から神戸のやくざに到るまで、老若男女を問わず、炊き出しや被災者支援に汗を流して恥じらうことがなかった。この動きは1997年12月のナホトカ号による日本海の重油汚染事件に際しても変わらずに発揮されて、「人が困っている時に、出来ることをしてあげること」がまるで恥ずべきことでなくなってしまう。むしろ格好いいことになって行くのであった。自己犠牲の是認は、自己中心・自己本位の生き方を、日本人の標準から傍流に押し流していく。未だに「お金持ちになりたいから医者になる、弁護士になる。」と公言してはばからない人々がいることは確かだが、どうもこの人達は、もはやこの国の標準的な階層ではなくなっているようだ。何よりの証拠は、千葉大学医学部等が入試に当たって面接を行うようになり、このような言葉を公然と吐く無恥・無教養な人達、謙虚さを知らない入学志願者達を排除し始めていることだ。千葉大医学部関係の医者達の物腰は本当に変わった。患者達を見下すことを決してしない紳士になった。以前は、肩で風を切るようにのっしのっしと病院の廊下を歩いていた、あのやくざのように傍若無人の医者達はどこに行ってしまったのだろう。 

 

 エ 子供部屋が子供の自立を促す論

 「子供に専用の部屋を与えることは、子供の自立のために必要です。」

 「子供部屋は何よりも勉強部屋であり、テレビやステレオや電話を置くことは、子供の勉強を促進させます。」

 1989(平成1)年女子高校生コンクリート殺人事件は、上記のように、戦後民主教育の理想を追った両親が、我が子のために用意した子供部屋で起きたのであった。1ヶ月以上に渉って監禁され、数人の男子高校生らによって、なぶり者にされる女子高校生の悲鳴、存在に、同居していた両親は、殆ど気付かなかったと後で語った。

 子供部屋が密室化し、子供達は「しつけ」や「遠慮」を学習しないだけでなく、家族の団らんから離脱して、ホテルの一室に滞在するが如く、勝手放題したい放題の居心地の良さに惑溺していった。今や世界で、韓国と日本にしか見られないという「引きこもり」の人たちの何人かは既に40歳台となり、総数は100万人を超えたと聞く。

 1998(平成10)年4月、(財)住宅産業研修財団理事長松田妙子氏は、「家をつくって子を失う」という大著を発刊。「住足りて礼節を失う」子供達の原因の1つが、利己主義製造装置であった日本の子供部屋にあると指摘した。日本の伝統的な子供の部屋の姿から、世界のどこにもない現代日本の子供部屋のあり方(鍵付きのドア・電話テレビ冷蔵庫付きの部屋・玄関から直行できる部屋の配置・父や母など家族との会話不要の生活=子供の自由、勝手、気儘を最大限に発揮させて上げようという世界でもまれなる親心=将来子供を「引きこもり」にするための予行練習)に到るまで、戦前に発する私達の錯覚を松田氏は跡づけている。

 数年前、「成績のよい子たちが、子供部屋で勉強しないで、台所や家人が居る側で勉強している」という本。「勉強机も専用の勉強部屋もないのに成績は抜群という子供達がいる」という月刊誌の特集が連発されたことがあった。そして大手住宅メーカーが、玄関から子供部屋に子供を直行させない住宅、子供部屋の戸が子供を親達から遮断独立させない配慮をウリにする住宅を提案し始めるのだ。ドイツもアメリカもイギリスも子供部屋を密室化させない配慮をしていたことに、私達は気付かなかった。子供部屋の戸にはカギがあってはならないことを知らなかった。

 子供達の「自立心は、孤立状態によって養われる」という実に簡単な錯覚。忍耐や妥協や「葛藤がない方が子供達の自立心は強化される」という錯覚。双方向の「情報交換を遮断することによって、孤独に強い人間になれる」という錯覚。要するに、孤島に流された「ロビンソンクルーソーこそが理想の教育環境にいた」と言わんばかりの錯覚。1つの戦後民主主義の錯覚が終わろうとしている。

 

 オ 「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ」論

 食事の献立を何にするかを決定する権利、つまり献立権を巡る嫁と姑との権力闘争は、大家族時代の大きな課題の1つであった。この献立権が今、子供達の手に握られていると聞いた。「今日のメニューは何がいい?」と親から聞かれた子供が、「あれがいい。これがいい。」と応えると、それでその日の献立が決まる。「子供は、いつも食べたいものだけを食べる権利を持つ。」というわけだ。

 この子供の年齢がもしも6歳であるとしたら、6歳の子供が知っている味・献立しか食卓には載らないことになる。サイゼリアなどの外食が、食事体験の基本となって、母の味は霞んで消える。「味覚の原点は和食」などといった発想はない。イタリア料理、中華料理、フランス料理、韓国料理。何でも美味しければよいではないかと人は開き直る。我が家の定食なぞ要らない。テレビの宣伝とお店の売り込みが判断の基準。そして子供が最終決定をする。

 「嫌いなものが全く出てこない我が家の食卓は、子供達にとって安心と満足の世界」と思って、親も満足でいられるのは、その後数年間限りのこと。少なくとも木更津社会館保育園は、栄養士が決め園長が承認した献立を、理由なく拒否することを子供達に認めない。子供達の好き嫌いを認めない。用意された食事を、好きでも嫌いでも、「お腹が減った!」と言って平らげることが子供達に求められている。「飢えたる者は食を選ばず」と孔子様は言われた。食前の子供達が充分に空腹であれば、既に味付けの半分は終わったと同じ。そして専門の栄養士によって事前に計画され、人として、日本人として是非知っておいて欲しいメニューが日々出されているとしたら、6歳児の目に映った印象を評価基準にするなんておこがましいし、子供が食事が上手いか不味いかを判断するなぞ、あってはならないことではないか。母が作った物が、そのままで美味しいのであり、子供の異議申し立ては早すぎる。子供の味覚は、まだまだ限定固定化されていない。様々な食事体験を重ねながら、日本人としての基本の味覚を子供達は体得すべきだ。古来、何よりも食事は地産地消を基本としてきた。人が生きる地点から30キロ以内の食材によって、人の健康・命は作られてきた。私達にとって、それは和食であり、米・魚・海草・野菜・味噌醤油等であった。子供達は、知らず知らずのうちに、この伝統の母の味を自らの味覚の基本とすべきなのだ。サイゼリアが味の基準になってはならないのだ。(サイゼリア社長及びその母上の素晴らしさを私は承知しております。だからファミレスの代表格としてここにその名を挙げさせて頂きました。)

 

 カ 「ご飯を食べると馬鹿になる。」慶応大学医学部某教授

 1971(昭和46)年、日本マクドナルド1号店を銀座三越に出店した初代社長藤田田氏は、9歳までに人の味覚は決まるから、ハンバーガーを先ず9歳以前の子供達に食べさせることで、その消費量を拡大したいと公言していた。和食ではない、牛肉を中心におくハンバーガーを主食にして生きていく日本人を育て、アメリカと同様の食文化を日本に定着させたい。ご飯や味噌汁や漬け物は、時代遅れの、日本にしか通用しない食文化だと藤田社長は確信していたようだ。

 それ以前には「ご飯を減らしてパンを食べよう」運動、「味噌汁よりも牛乳がよい」運動もあった。主食がパンになれば当然、人ば味噌汁を敬遠して牛乳を飲むものだ。完全にこれらの運動宣伝は連動していた。「ご飯を食べると馬鹿になる」と断言する研究者が慶応大学に現れた。味噌汁は高血圧の原因になると宣伝され、保健所栄養士が各家庭にまで入って指導をした。和菓子より乳脂肪分たっぷりの洋菓子の方が高級イメージになった。魚の料理は面倒だ。肉と砂糖の消費量が増えるのと反比例して、お米の消費量はかつての半分になっていった。そして、小児成人病(今は「生活習慣病」とぼかされている。)の激増に続いて、20歳台30歳台、或いは更年期の女性の乳ガン・子宮がんが激増し始めた。この40年の間の生活様式(運動不足・夜更かし)と食習慣の洋風(高タンパク・高脂質)化が日本人の病気の風景をも激変させた。

 1977年アメリカ議会上院は、医療費があまりに増えすぎていく現実を真剣に調査分析して、国民の健康対策・医療費抑制策として、日本の伝統食がよいと言い出した。その調査報告書では、「1日のエネルギー摂取の6割を炭水化物にする」ことが推奨されていた。これは、日本流に解すれば「毎食ご飯を食べよ」と言っているようなものだ。そして1993年にはアメリカ政府が「アジアの伝統的な健康食」を推奨し始め、アメリカ国内では、すしや魚料理のレストランが大繁盛し始め、増加するばかりだったガン死亡者数を減少に転じさせるのだ。

 遅れて、医療費の高騰が明らかになるや、日本政府もアメリカの和食重視方針に追随する。2005(平成17)年6月のことだった。食事面での伝統回帰は、もはや日本人にとって死ぬか生きるかに拘わる重大な課題となっている。「美味しければよいではないか。人が好んで選んでいるのだから、自己責任で済ますしかないではないか。」という言葉を吐く人は、砂糖一杯の甘味飲料・覚醒剤・タバコや売春(援助交際)についても、同じ論法が成り立つことに気付いているのだろうか。

 社会館保育園給食室は、日本政府の方針逆転を是とし、今まで同様に魚料理を重視し肉料理を注意深く使っている。2008年度より、たくさんの野菜を具にした味噌汁を毎週1回は出し、3歳のワニ組以上は三芳村からの配給野菜が余った時には、クラス独自で味噌汁を作っている。納豆を嫌いな子供がいることに気付いた2008年からは毎月1回納豆を出すようになり、主食は明らかにご飯が合う献立が多くなっている。日本のパンがヨーロッパの丸パン・フランスパン・黒パンとは違う、砂糖やバターがまぶされたお菓子のようなパンになっていること、市販の牛乳の多くが100度を超す高温殺菌を受けている、ヨーロッパの常識では「牛乳ではない牛乳」となっていることも、園長宮崎が明らかに知る所となった。2歳以下の子供達の牛乳が、マザー牧場の低温殺菌牛乳になって久しい。請西の森の分園の下の田んぼの減農薬米を、2009年秋から時々、3歳以上児が食べるようにもなった。社会館に設置された精米機で、子供達が見ている前で精米がされるのだ。

 

 キ 子供達は、誰からも束縛されるべきではない論

 「子供達は、自分の好きなものだけを食べていればよい。」という考えは、「人は自分が好きな人たちとだけ会っていればよい。」「人は自分がしたいことだけをしていればよい。」と膨らむ。旧憲法下で、女は、先祖を頂く婚家の後継者を生み育てるために結婚するのが当たり前、結婚相手は親が決める、子供の人生を決めるのも親であったのが、1948(昭和23)年ひっくり返された。あらゆる場面での自己決定が男女ともに許されて、全ては自己責任、自業自得するようになった。親達は子供達の人生に関与せず、期待せず、その結果にも責任は負わない。「自分が正しいと信じたことは、人から何を言われようとその道を行きなさい。」(イギリス人女性殺害事件容疑者市橋達也の母の言葉)とだけ教えて、知らん顔。自己決定の前提となる価値判断、正邪の判断の基準は教えない:価値中立が戦後民主主義教育の優等生の態度。決定の基準を与えられずして下される決定が、自己中心、自分優先、自己本位になるのは、自然の成り行き。神仏を遠ざけられ、先祖からの子孫への切なる思いを知らされずに、生命のほとばしりのみを頼りにすれば、結果は自ずと知れたもの。躊躇なく弱い者をいじめ、人の幸せを蹂躙して平気な、野獣たちの世界が、今、日本のあちこちにに広がっているかのようだ。

 木更津社会館保育園は、昔のようにしつけを優先しない。むしろ、生命のほとばしりを大事にする。子供達の自己感情、自己判断、自己決定を促し自己満足を良しとする。そのおおらかな雰囲気の中で、焼き鳥の串のようにぶすりぶすりと貫き等されていることどもがある。

 ① あいさつ:人と人の繋がり支え合いののキッカケ

 ② 弱い者達・挫けそうになっている仲間達への思いやり、励まし

 ③ 感情の共有・交流・連帯:人の喜び・悲しみ・苦しみがそのまま私のそれ

 ④ 仲間・大人・世界への基本的な信頼感、決して絶望しない責任感・楽天性・自信

 ⑤ いざというときの自己犠牲の覚悟・予感

 社会館の子供達には、このような数本の串が心の底まで差し込まれている。彼等の人生を貫いて変わらないであろう人生の価値判断の基準が、はっきりと示されている。「これは躾でしょう。」と言われれば否定はしないが、「躾以上」を我々は狙っている事はお分かり頂けるだろうか。

 

9 上記以外に重大な影響を受けた方々

 斉藤喜博・斉藤公子・丸山亜季・高垣順一郎・シュタイナー・遠山啓・森岡正博

 

 ァ 斉藤喜博先生は、群馬県の島小学校・境小学校校長として自ら国語等の教鞭を執り、小学生がその全身全霊を注いで授業に参加できることを示してくれた。子供達の写真群は、私に圧倒的な印象を残した。学校の成果は、子供如何ではなく、教員の力如何に係っていることも明白に示されていた。

 

 ィ 斉藤公子先生は、私が千葉県職員として出張視察が出来た頃に伺った深谷のさくら保育園の保母であった。未だ40歳代であった。西久保保育園(近藤茂樹園長)の園田とき先生のご紹介であった。東京女子高等師範出身の才媛。このように知性と自信溢れる方が、田舎の保育所にいるということが驚きであった。サクラ保育園の環境の素晴らしさに私が触れた時、彼女は、「保育は筵(むしろ)1枚で出来ます。環境のせいにしてはいけませんよ。」と言われた。1人の人間として圧倒的な説得力を持っている人だった。

 彼女が発明した「リズム」を私は、社会館で使わせて貰えて本当に幸運であった。「リズム」なしの社会館保育はあり得ません。斉藤先生は、後日サクラ・サクランボ保育園から排斥されて、主に沖縄に迎えられて最後の力を振り絞るように指導の年月を送られたが、2009年2月沖縄への飛行機の中で亡くなられたと聞いた。斉藤先生に木更津に来ていただいたのは、30年前だったか。

 

 ゥ 丸山亜季先生は、深谷のさくら保育園で実施されていた保母学校の指導者であった。毎週水曜日夜、ピアノを弾きながら歩き方から始まるリズムと歌のレッスンを指導されていた。音楽教育の会を林光先生と共に主催されており、私達は、ここで発行されている歌集から園で使われる歌を選んでいった。「子供は走るもの。」「子供の曲のテンポは速いもの。」「子供は自分がその中の主役になりきって歌える歌を好む。」「子供の歌は、途中での転調等があった方がよい。」今までの小学校唱歌、童謡が木更津社会館保育園から消えていった。丸山先生も逝去された。なんということだ。できることは、その気迫・迫力・知性を忘れないこと。

 

 エ 高垣順一郎先生は今京都の立命館大学で教授になっている。30年以上前に関西地区の一少年鑑別所の職員だった頃出された論文で、「9歳の節を越えていない少年達が、少年院に入ってくる」ことを指摘された。自己のそれまでの人生を物語にして総括できないこと、自己の犯行を、「気がついたら」とか「何となく」とか、自らの意志と関わりのない人ごとのような偶然の出来事として受け止めようとすること、自発的な目的設定・目的に合わせた手段選択を出来ない。計画性・自己感情の関与・結果に対する責任意識が曖昧など。少年犯罪を減らすために明快に課題設定をしていた。私は、この論文によって9歳の壁・節の存在を知った。これが後に、社会館保育園の目標:誰もが「9歳までに自分は生まれてきてよかったのだと思えるように」につながるのだ。

 

 オ シュタイナースクールの存在を私は、子安美智子氏の体験報告で知った。2ヶ月単位の集中講義を基本として、人の能力・時間を細切れにせず、人智を総体として発揮させようとしていること。戦後のコアカリキュラムのような総合学習を主としていること。生徒が非常に能動的であること。記憶するために忘却が必要であること。人は7年単位で成長すること。論理性抽象性は教育段階の後半に置かれること。前半には感性や直感力が重視されるべきこと。そのためには人工物より自然物の方が有効であること。卒業生の中には、医者・研究者や芸術家が少なくないとのこと。明らかに1人1人の創造性を養っている学校であった。シュタイナースクールの発想法は、社会館の「森・里山保育」をやんわりと是認しているように私は受け止めている。

 

 カ 遠山啓先生は、数学教育協議会を作り、タイルのイメージを活かして、水道方式と言われる算数の教育方法を主唱された。これは子供達の算数・数学の学習が直感によって行われていることを指摘した。更に、学校教員が算数教育を子供達に授けられるのは、子供達の事前の自己了解・自己発見が必要条件であることも明らかにしていた。学校は、子供達に何かを教えていたのではなく、既に子供達の意識、無意識の中にあるイメージに言葉を付けて見せていたというのだ。言葉は目に見える映像の後について行けるだけなのだ。その映像・イメージを欠いている子供達には、算数教育は不可能であったのだ。私が、保育士達による子供達への指導よりも、子供達自身による「気づき」自己発見を優先させようとする理由は、遠山先生のご指摘があったからなのだ。

 

キ 森岡正博先生の大著「無痛文明論」は、戦後の日本人の目標設定に根元的な誤りがあったことを指摘していた。「危険・抵抗感・手応え・緊張・葛藤を完全に排除した安全・快適・便利さ・安楽さ・計画性・予測可能性が、逆に、人々を苛立たせ、攻撃的にさせ、内向させ、相互破壊から自己破滅志向にまで追い込んでいる。人の自己家畜化は、完璧、極限に近づいており、今までの常識が理解困難な「破滅念慮としか言えない諸事件」を続出させている。人には、安楽安全でない場面・時間が必要だが、それさえも現代文明は、ギャンブル等として自己の装置に取り込んでしまっている。」

 森岡氏の指摘は、人の統御が遂に及ぶことがない、自然そのものを子供達に用意する「森・里山保育」の現代性・可能性を示唆している。泥んこ・怪我・喧嘩と子供集団の自律性とがアマルガムになって、発展途上国の子供達の様な子供達が、木更津社会館保育園には生きている。不足・不満を怒りに直結させず、創意工夫・ユーモアに昇華させる子供達がそこにいた。痛みや葛藤・苛立ちの原因を人の悪意に帰することなく、一瞬憮然としつつも「ゴクリ」と呑み込んで、淡然としてやり過ごす雅量・胆力を社会館くじら組の子供達は持っている。

 日本で、改善・合理化は、限度を超えて進められて、従業員達を苦しめ、安心感・満足感を蒸発させてしまった。変化はたやすい、安定は困難な課題だ。マンネリはたやすい、変革は困難な問題だ。変化しつつ変化していないように見せる。(マクドナルドハンバーガーの味は半年ごとに変えられている。が外からは分からない。)安定しつつ安定していないように見せる。(ホテルの内装。3年に1度改められるが、客を不安にさせるような変化はしない。)

 1人1人の人の欲求自体が、矛盾をはらんでいるのだから、答えもその矛盾に対応していなければならない。ユダヤの101人会議が、全員一致は、自動的に否決と決めていると聞く。不完全な人間達が全員1つの意見になったということは、その意見の不完全性を証明していると彼等は言う。"Bettet is best.Best isNo!."なのだ。山形県酒田市の本間家の家訓に「財産は溢れさせるな。溢れそうになってきたら、世のために使ってしまえ。」があった。「何でも完成させるな。完成しそうになったら、壊してしまえ。」と言ってよいのだろうか。「熟せば腐るのは、自然の法則。」だとしたら、熟させなければよいのだが、人は、永遠の未熟・半熟に耐えられない。身の破滅が予感できても、時には破滅して無一文になって安心したいのだ。

 が、これはやはり未成熟な自己中心人間の台詞。大人は小さな破滅の連鎖をシステムに組み込んで、全体を守る。

 社会館保育園が、システムとして泥んこ・怪我・喧嘩と子供集団の自律性とをごちゃごちゃのアマルガムにして、小さな混沌雲をくじら組の全体宇宙に織り込んでいくやり方は、非常に賢い生き方に見えてきた。

 「混沌から秩序へ」は、常に変わらぬ社会館の流儀だ。子供達に初めから秩序だった世界を用意しない。先ず未完、先ずゴチャゴチャ、先ず混沌がスタート。それは岩登りの第1歩。与えられたゴミの山を宝の山にするのは、子供達の構想力・構成力・想像力。そこに意識された定石はない。しかし子供達の目がキラリと光ったら、子供達がごそごそと動き始めたら自ずと道は拓けていく。人は、立ち往生していてはならないのだ。動いてみれば、今まで見えなかった手がかりを見つけられるかも知れない。動きながら考えて、考えながら動く。それが子供達の遊び。20歳の若い保育士達が保育の計画を立てたとしても、子供達の構想力の足元にも及ばないこともあるかも知れない。だから少なくとも、子供達を見くびることなく、その動きの中に、光って見えるものを探し続けることだ。

 

ク 大貫妙子という音楽家が、2015年5月30日朝6:45、NHKラジオ番組で語っておられた。

 「私は作曲してから作詞をする。」何らかのきっかけがあった時、まず音が頭に浮かぶ。その音の連鎖を一つの曲にまとめ上げることが、構想の第1歩だ。その時、大貫氏は、何らの言葉も台詞も必要としない。必要なのは心の動き、それだけ。

 言葉以前を私宮﨑は気にしてきた。「まず言葉があった」という、西洋の古書の断言に違和感を持ち続けてきた。「まず言葉以前があった」のだ。音楽を日々創造する大貫氏が、「言葉は後からやってくる。音が言葉を生み出してくれる。」と言われるのを聞いて、木更津社会館保育園が、わらべ歌とともに、感情爆発としての子供達の喧嘩を尊重し大切にしてきたことを思った。

 人間存在が「話せば分かる」存在なら、喧嘩は不要であり、犯罪も戦争も起きないだろう。が、耐えがたき原爆体験を突きつけられても、軍隊は解散されず、警察も刑務所も廃止されない。話しても分からない人達がいるからだ。彼等がきちんとした思考力を持っていない場合もあるだろうが、実は言葉以前が人を動かしているからだ。

 言葉以前とは、感情・感覚だけでなく無意識の作用でもあり、たぶん人が混沌・未分・不思議・不可思議の世界に在籍することでもある。これらを幼い頃から大切に慎重に養ってきたかどうか。その結果が、あなたが「音楽家大貫妙子」に共感できるかどうかを決めてきたのだ。

 実際「話せば分かる」のなら一切の芸術は不要になる。ソ連の共産主義者達の断言では、芸術はただ現実・事実を描写するためにだけある。「心の動き」など一切必要としない。素朴に実在し、目に見え、耳に聞こえ、肌に触れるものだけが真実であり、それらを写真機のように忠実に写実することだけが芸術の役割。「ロバの尻尾で描かれたような」(ソ連首相フルシチョフ)抽象画も幼児画も社会主義レアリズムの彼岸にある無意味な存在。ショスタコービッチの苦しみを思う。

 「音が言葉を引き出す。音が言葉を支える。」としたら、「意味としての言葉」以前の、「音としての言葉を幼子達に与えている」保育者に私達はなっているかどうか。

 

 

 子供達に何を教え何を任せるか。1945(昭和20)年夏、日本人達は、産湯と一緒に「赤ちゃん」も捨ててしまった。大切に残しておくべきであった「古来の流儀」なども、流し忘れてしまった。そんな戦後日本人達の1人として、うかつにも流してしまったものの中から、大事にすべきものを1つ1つ拾い上げる作業を私はしてきた。未だ忘れ物があるかも知れない。自然だけでない。人生も歴史も、たぶん汲み尽くされることはない。挫けることなく、諦めることもせずに、希望の光を仰ぎ続けよう。

 1938(昭和13)年12月1日開園の日から77年。70年前アメリカ軍の戦闘機グラマンが木更津上空に飛来した。その軍人民間人の区別なき無差別機銃掃射をくぐり抜けて、社会館の庭に立ち続けてきた、すずかけ(プラタナス)の2本の大樹。歴史を忘れず、恩讐の彼方を遠く見て、木更津社会館保育園は創立80周年を迎える。

    

2017.5.26   宮 崎 栄 樹

問合せは、社会館 電話:0438-22-3659/Fax:0438-22-3687へどうぞ。