社会館の竈(かまど)

 

社会館の竈(かまど)は本物、簡易竈ではない

 

本園は1穴・森の家は2穴・佐平館は3

Ⅰ 本園の竈 (年長クラスの近くに常設されている。)

  能登の七尾市の工場で今も生産されている珪藻土製の竈。

 厚労省の基準では、3才児より、主食は「家から持参」となっている。だからお昼の御飯は冷めているのが当たり前。それでは可哀想だから、主食も園で作ってあげようと考える人がいる。

 私の50年前の保育園給食の記憶はない。中学生の時の毎日の弁当の記憶は鮮明。その御飯は二段重ねで鰹節とノリが載っているのが定番。御飯が冷たいのは当たり前。「温かければよいのに」などと思った記憶はない。冷たくても母の味は、十分においしかった。

 そこで社会館流は?冷たい御飯を子供達の弁当の標準形にする。(但し冬は温蔵庫で温める。)たまに家から、一握りのお米を持ってきて貰って、園の竈で子供達に焚かせてあげる。お米をとぐのも子供達。古竹や薪を集めるのも子供達。パタパタとうちわで扇ぐのはとっても愉快。蒸気機関車のように、重い蓋を動かして泡がシューッと吹き出すのはもっとドキドキものだ。さあ出来た。出来たての御飯の甘さ・おいしさ。自分たちで炊いた御飯のいとおしさといったら言うことなし。

 おいしい御飯の味わいは、この様にして強烈に子供達の味覚に埋め込まれる。もし毎日給食室で作られる温かくもおいしい御飯を食べていたら、家から持参の冷めた御飯と、園のかまどで自分たちで炊いた出来たて御飯のコントラストを彼等は体験できない。

 子供達に幸せ体験を、どの段階でどの程度用意すべきかは、慎重に検討されなければならない。社会館の子供達は、「かまどの日」を熱烈にイメージして待つ。特に「お焦げ」が舌・心に染みいる苦さ・おいしさ・痛快さは、彼等の生涯の記憶に残るーというわけで、「前近代の炊事道具:竈は社会館の宝の1つ」。但し竈は非常災害の時に有効であるので、現代日本必須の炊事道具でもある。

 

Ⅱ 森の家の竈

  これも能登の七尾市の工場で今も生産されている珪藻土の竈。但し穴は2つ。お湯を沸かしながら御飯を炊ける。

 

火の炎が見えて、煙が出る。それは車輪がない蒸気機関車。動かないが生きているかと思わされる。①何よりも煙が出るのがよい。②何よりも炎が見えるのがよい。③自分たちが火を調節しているという実感がよい。

 ④油断していると火傷をするのがよい。

 

 

Ⅲ 佐平館の竈

  分園の母屋の裏の水屋のなかにあり。木更津の職人達が作った。材料は裏山の粘土土と瓦のかけら。穴は3つあってお湯と汁物と御飯を同時に煮炊きできる。

 

  竈体験が子供時代に組み込まれるべき理由は、自動販売機体験が子供時代から外されるべき理由と同じ。原因と結果を結ぶ過程が、竈では顕わであり、自動販売機では綺麗に隠されている。過程が見えない自動販売機は子供から遠ざけられ、過程が丸見えの竈が子供の前に置かれるべきなのだ。それは(「自分が世界を支えている。自分が世界を変えている。」という)自己原因性感覚=自己有能感を養う幼年期に相応しい体験だ。