7 ディベートの衝撃的な真理観

 ディベートは更に、現在も変わらないヨーロッパの人びとの真理観を私に教えてくれた。それは、「真理は必ずしも1つではなく、客観的に存在するのでもない。真理はその場の議論で決められていく。」というこれまた衝撃的なものであった。名著「古事記の世界」を著した国文学者西郷信綱氏は同書の序言で「真理は、ドンピシャリ只1つ。」と断言されていた。素朴実在論に立つ多くの日本人達にとっても「只1つ」論はなじみやすい考えであった。しかしヨーロッパの知恵者は違った。

 14世紀のヨーロッパの大学で始められたキリスト教神学の1部門であった弁神論は、ディベートという討論法を採用していた。それは、1つの主張には必ず反論が可能である、とする。例えば昔ローマ法王庁は「地球は平らだ。」と主張していた。そこで人は「地球は平らか丸いか。」を議題にして討論をした。私は先ず「地球は平らである。」と相手に認めさせなければならない。ついで私は「地球は丸い。」と主張して相手を再び納得させてしまわなければならない。そこで求められているのは、「何が正解か、ではなく、如何なる立場・主張であれ、自己の考えを相手に納得させてしまう論証の能力」であった。キリスト教関係者は、このようにして「神の存在を証明」する立証能力を磨いてきたのだ。自分が依って立つ立場を対象化し、いわば論敵の立場に立って自己の理解をチェックするレッスンが、どれ程人びとの思考を深めたかは予想に難くない。権力の暴力によるだけででなく、対等の論戦の場で相手を説得することをキリスト教関係者は追求していた。これは大した民主主義的な態度ではないか。対等なもの同士による論理と論理の対決で問題に決着を付けようとする思想は、言葉を信頼する人びとによって初めて可能であり、そこに言葉による契約が神との間でも人との間でも成り立つのであった。契約も含めて全ては「仮説」なのだ。「真理」ではないのだ。どこかに「真理」が潜んでいて、我々はそれを掘り起こすのではない。私たちの言葉・思考が「仮説」を産み出し支えていくのだ。世の中の「真理」は常に「仮説」なのだ。

 西洋医学も東洋医学も有効である。が西洋医学が東洋医学にいささか優越しているのは、自己の認識が永遠に仮説であり永遠に改善されていくことを明確に認めているからである。西洋医学の論理は常に開かれており、如何なる批判も無視しない。自己の絶対性を主張せず、新しい知見に基づいて、大胆に治療法を変更する。人びとの命に触る医師達のこの謙虚さは、戦後民主主義教育の基本そのものである。このような西洋医学の真理観こそは、ヨーロッパの伝統的な真理観であった。